<citrus> 行き付けの店が、地味に新作のコロンを出した。 いや出していた。らしい。いつの間にか。 足を運ぶのは実に久し振りだ。 香りは3種類。どれも同じ暗い色の容器に入れられ、余り目立ちもしない棚の合間に何気なく飾られている。 なんだか可哀そうじゃねえか。 デビューしたてだってのにこの扱いは。 打ち捨てられた有様を何かと重ねそうになって、急いで顎を上げて振り切った。 慰みに、サンプルに鼻を近付けてみる。 2番目を嗅いだ時、眩暈がした。 似ている。 勿論、そんなわけはない。 何よりあいつはこんな店で買い物などしない。 だから違う。違うが、似ている。 何層にも重なった香りの、一番上か、その下辺りが、奴の匂いと確かに被る。 小さな吹き出し口に顔を近付け、もう一度隠れるようにしてそれを嗅いだ。 「香水を付けているのか」と聞けば鼻で嗤うだけだろう。 番犬なら嗅覚は鋭いはずだが、自分に向く鼻は麻痺しているのか。 常に同じ強さで、多分もう皮膚に染み付いているその匂いを、 だが俺は嗅ぎ分けることができる。 もう一度。 小さな孔の向こうに潜む官能を引き摺り出すようにして吸い込む。 固い首筋を思い出した。その上で呼ぶ声を思い出した。 昏い、瞳を思い出した。 思わず指が、唇を分け、息を呑んだ。 頭を振って自分を笑い、店を出て、散々歩いて立ち止まり、もう一度取って返して、子供でも出せるような金額と引き換えに小さなボトルを手に入れた。 朝、丁寧に整えたベッドは広く見えた。 白い砂漠の様だ。 腰を掛け、緑のボトルの蓋を外す。 新しい容器は純情な若者を想わせる初々しい風情で、サンプルのような、熟れた匂いはしなかった。 欲しいのは気取った演出のための香りではなく、身体の内から匂い立つ、体臭のように蕩けた感じだ。 違う。 気のせいだったのかと焦る気持ちが胸を焼く。 どうしたら、あれが…… もう一度、店に? 慌てて何度か空中にスプレーし、新しく濡れた吹き出し口に残る香りを、縋る思いで嗅いで眼を瞑る。 足りない。 必死に霧を、放ち続ける。 そのうちに脳にまで匂いが回って、何だか思い通りの物が手に入ったような気もしてきて、横になった。 なぜ2か月も連絡がない。 番号は知っている。 だが絶対に掛けてくるなと言われていた。 『何で?』 『掛かってくるかもしれないと思えば気が散る。俺が蜂の巣になってもいいのか』 『……そりゃあ困るなあ』 特にここは、と指を這わせた場所の重みを思い出す。 けど、じゃあ俺がてめえの電話に掛けるのはいつだ、てめえが死んだ時かと呟くと、相手は黙った。 手が自分のその箇所に下り、包み、蠢き始めた。 うっかりスプレーが顔に掛かり、急いで膚に馴染ませる。 近過ぎる…… コロンの香りは直ぐに消えてしまう。 何度も、何度も、空いた手で容器の頭を押した。 漏れ出す喘ぎの合間に、小さな噴霧の音が絶え間なく入り込む。 違う。 胸を弄る手も、脇を滑る指も、 こうではない。 違う違う違う。 足りない。 大急ぎで布を取り去り、裸の脚を高く上げ、その場所を緩やかに撫でた。 ボトルは投げてしまった。 始めから奥深くまで指を差し入れ、 感じるところを押し、だが極まる直前で焦らすように引いて抜き差しに入る。 なるべく。 あいつのやるように。 ペニスの根元を押さえ付け、一定のリズムで後ろの指を動かし続ける。 足を大きく開き、もっと奥へ、もっと奥へと、 見えない影を相手に強請る。 ああ……っ、でも、……っこれ、じゃ…… ぁ! 顔の向きを変えた時、匂いが急に強くなり、耳元でリアルに声を聞いた。 『サンジ……』 !! 固く閉じた眼を開く。 懸命に見ても姿はない。 酷く驚いたが射精感は止まらず、身体の奥から突き上げ迸り出ようとする熱に、慌てて手を添えそのまま狂ったように霧の中で果てた。 荒い息を吐き、まだ痙攣する身体の上に。 遮るもののない熱い肉の上に、晒された膚の上に、乱れて濡れた髪の上に、部屋中に飛び散り充満した小さな粒が、カーテンのように、静かに降りてくる。 一つ一つが目に見えるようだ。 霧は気まぐれに膚に冷たく触れ、その様子にサンジは自分を重ねた。 部屋を覆い尽くした粒子の厚みに、自分の想いが凝縮されているような気がした。 恋慕。憧憬。欲情。執着。未練。 後悔。 複雑に絡まった感情の重みに押し潰されるようで、避けようとしたが失敗し、諦め、結局全身で受けた。 身体は咽返るようなシトラスの霧に覆われた。 ボトルの中身は半分になっていた。 多分、当分匂いは残るだろう。 思い立って、裸のまま家中にスプレーして回った。 少しは嫉妬でもしねえか。 待つのは今日で終わりにすることにした。 明日こそ。 思ってサンジは、まだ荒い息の残る顔を上げた。 |