<almost paradise>



『なあお前……オールブルーって知ってるか?』

最初にこう聞かれたのは、いつ、誰にだっただろう。
いや、実際は、声ではなく本の中の台詞だったかもしれない。
色とりどりの、世界中の魚が集まるという、
夢のような場所。


すごいなあ。
そこはどんなうみなんだろう?
なぜ、みんな、あつまってくるんだろうか。
そんなにたくさん、いろんなところからやってきて、けんかになったりはしねえのか?

さかなはいいなあ。
せんそうなんか、しないもんな。



いつかこの目で見たいと思った。
競うように、誇らしげに、生き生きと、魚たちが泳ぐ、その様を。
自分の足で探しに行きたい。そう思った。


「サンジ様、サンジ様!」

突然の声にはっと顔を上げる。いけない、まだ講義中だった。
その様子を見、ちらりと視線を落とした講師が頷いた。

「大変綺麗に書けていらっしゃいますね。素晴らしい」

手元のノートのことだ。サンジはいつも、例えもう予習を済ませてあることでも、講師が板書したことはすべて漏らさず、美しい文字で書き記した。
ですが、と若くて有能な兵学者が続ける。

「こんな模様の武器はございません」

言われて胸が撥ねた。わははははは。兄弟達の嘲笑がそこに被る。
なんで……みんなの前で、いうんだ……!顔が火照るのが自分でもわかった。くそ……くそ!

銃や大砲は、どれもみな重苦しい鈍色でつまらない。
種類を覚えるだけなら何でもいいではないか。そう思ってサンジは、物騒な兵器に色を付け、水玉や花模様で飾った。色鉛筆で、丁寧に色も塗った。
「さあ、今はもう、次の章に進んでいますよ」
講師は張りのある声でそう言って、褒めたはずのノートにはそれ以上興味の欠片も示さなかった。
部屋の中に、静寂が戻った。

ほろり、ほろり。少しずつ、こころが削れていく。


夕方になり、調理場を覗いた。
侍従たちに見つかればあまりいい顔はされないが、ここはサンジお気に入りの場所だった。
まっさらな、何もないところから魔法のように生まれる料理。食材も、道具も、ただそこに置かれているだけでは何も語らない。だがひとたびコックが意志を持ってそれらを並べ替え、力を加減し、色々な工夫を付け加えれば、味も香りも複雑に、何層にも重なったご馳走が生まれる。それを知ってからは、ただ大きな鍋に湯を沸かしているのを見るだけでわくわくした。

「なにか、あったのですか?」

3番目に帽子の高いコックが、しょげた様子のサンジに言葉を掛けた。
うまく説明が出来ない。ただ胸の辺りがしくしくするだけだ。
サンジが言い淀んでいると、コックはにっこり笑って、戸棚から取って置きのクッキーを出し、手渡した。

「ナニーには内緒ですよ」

ぱちんとウィンクする。

父親が常々、『男の子に、だらだらと甘いものなど与えてくれるな』と言っているのは知っている。ナニーだってそれは承知だ。ふたりきりのとき、紅茶にはたっぷり砂糖を入れ、時には内緒で飴をくれたりすることもあるが、『ほんとうはいけないこと』だとお互いに分かっていた。

「食べれば元気がでますからね。そうすれば必ず答えが見つかります。いつか、必ず」

優しい声に、涙がこぼれそうになる。


もともとサンジは、殺伐とした空気の中に、綺麗なものや手の込んだ細工を見つけ出すのがうまかった。玩具のピストルよりパズルを、火薬の匂いより花の香りを好み、美しい挿絵のついた絵本もよく読んだ。
『サンジ様は本当にお手先が器用でいらっしゃって』
こつこつと作り上げたカードや小さな飾りを目にすると、みんな決まってそう褒めてくれた。

だが。
最後には決まって邪魔が入る。

『男がそんなものに興味をもってどうする』
『部下を統率するのに、手先の器用さなど何の役にも立たない』
『加えて言えば、お前のその優しさも問題だ』

だけど!直接言い返せないサンジは、心の中でくつくつと想いを煮え滾らせた。
手っていうのは、戦うためだけにあるんじゃないだろう?何かを壊すためだけに、あるわけじゃないだろう。おれは、作りたい。人を喜ばせたり、こころを潤わせるような何かを、作りたいんだ。この、手で。

あるとき、ついにうまく息が出来なくなって、サンジは全てを捨てた。
捨ててきた世界のことはどうでもよかった。正義にはそれぞれ居場所がある。
自分はその正義ごと捨てて逃げるのだ。ここではない、どこか他のところに。

夢のように綺麗で、争いのない、”オールブルー”を探しにいける、別の場所に。

ようやく、自分以外にその存在を信じる人間に出会えたことは幸せだった。
だがそのたったひとりの大切な味方に、サンジは、これ以上ない不幸を齎した。
何と何の引き算だ。自分のしたことは、どう転んでも取り返しがつかない。
夢より重い男の声以外を聞く耳を、サンジは塞いだ。

もとより、まともに息がつける、それだけで十分だったのだ。
俺の正義は居場所を見つけた。そこで終わりでよかった。

だが、追い立てられるように海に出て、初めて、自分には別の道が用意されていたことを知った。
麦わらを被った細っこいチビの異常性は誰の目にも明らかだったが、賭けるには十分だ。やがて、怖ろしい力を着々と身につけながら進んでいく船長の傍で、オールブルーはきっとこの先にあると思うようになった。

夢までは、もうすぐのはずだ。
あと少し――――――





いや?そう思ったが、もうここがそうか?いつの間にか着いてたのか。随分あったかい場所だな。俺は今……水の中にいるんだろうか。
あ、右から一匹、大きいのが来た。綺麗な翠だ……


ん?
ぼんやりと、緑が焦点を結んでゾロになった。

「……マリモ」

見下ろす瞳が夕陽を弾いて美しい。色を落とした髪とは対照的だった。
夢の夢……だったのか。ゆっくりと頭を上げた。

「目ぇ覚めたか」
「……」
「珍しいな、お前がこんな時間に」

確かに。
昼寝は剣士の専売特許のはずだった。おまけにここは奴の縄張りだ。でもさっきは、いるかと思ったらいなかった。一体どこで何をやってた――――――

「そんなに無理させた覚えはねえけどな」

言って、同じ高さに屈みこんだゾロが、顔に掛かった毛束をそっと指で払った。

寒気が走った。
待てよ。ちょっと待て、違うだろう。そこは「弛んでるな。修行が足りねえからだ」とかじゃねえのか?
ひょっとして、違う世界に戻ってきちまったのかと不安が募る。
見つめていたゾロが、異常に気付いて少し慄いた。

「なんだ、具合でも悪いのか」

鼓動が速い。
いつからだ。いつからこいつは、こんな風になった?
そう考えてふわりと思い直した。真綿のような真実が、頭一杯に広がる。

そもそも。こいつに嫌味なところなど最初からなかった。
喧嘩は、いつだって自分から仕掛けなければ、始まらなかった……

なんて、穏やかだ。だがこれは出来すぎだ。息が出来て、正義が護れて、誰かが傍にいる、だって?

「ああ!」

叫んで顔を両手で覆った。でも……!

「おい!」

ゾロが緊張して叫んだ。その胸元に思い切って飛び込む。尻もちを付いた上に跨って、張りのある身体をぎゅうぎゅう抱き締めた。

「なあゾロ、ゾロ!」
「?」
「俺の夢、半分いらねえ?」
「は?夢?何言って……」
「オールブルーなんて、ひとりで見たってつまんねえよ!」
「そっちか。どうしたんだ、急に」

いつからだ。いつからおれは、こんな風になった?
例えまともに息が出来て、正義が護れたとしても、

――――お前がそこにいなければ。


「胸が痛い……」
「!チョッパーに……」

もう一度強く抱き締める。

「でも嬉しい」
「???」

独りでは生きられないと悟ることが、こんなに甘美だったとは。

「もう〜〜〜〜〜〜、マリモ!」
「?」
「大好きだ、後で繋がろうな!」

ガッ、と大きな手のひらが額を覆った。

「熱はねえな」
「ったりめえだ、クソミドリぃ」

満ち足りた気持ちで微笑み、身体を下りる。

「メシ、作ってくる」

また、進むために。
清々した背中を向けると手を引くように後ろから声が掛かった。

「サンジ」

何を惜しむ?
そっと戻って、輝きを顰めて落ち着いた瞳を覗き込むと、サンジは丁寧にひとつ、恋人にキスをした。










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