瑠璃之巻





明けても暮れても





女二人が前を歩いていた。
おしゃべりに夢中で、歩みが疎かになっていることに気付かないらしい。
重い書類の山を抱えつつも急ぎ足で歩くイルカとの距離は、次第に縮まって行った。

なにがそんなに楽しいのか。二人さっきから顔を見合わせて、笑ってばかりいる。
その声がようやく聞き取れるところまで近づいた時、一気に追い抜かそうとした足がふと
緩んだ。

「それで上忍よ」

何だ……?
反射的に身構えた。上忍と言ったって色々だ。何もあの人の話と決まったわけではない。
だが身体が急に、言うことを聞かなくなった。

「またあの髪がいいのよねえ」

ひとりが甘い溜め息をついた。

「ああ〜。わかる。触ってみたいし……触られたい」
「きゃー?」
「あれって、ああ見えて結構手が掛ってるわよね! 本当のお洒落っていうの? なんていうか、
全てに手を抜かない感じ」
「男らしい、っていうよりどっちかっていうと獣……まるで狼みたい」
「獲物を求めて彷徨う、飢えた白い狼!? ああ〜ん、色っぽ〜〜い!」
「やだ」

また笑い。

「あのマスクの下はどんななのかしらねえ」
「あれを下ろして見られる人は幸せよ」
「もう誰か……決まった人がいるのかしら」
「さあ。ああいう立場だから。あ、でも、花街辺りには絶対誰かいそうよね」
「あ〜。カカシ先生の相手になれるなら、わたし花街勤めでも構わないなあ」
「なぁに言ってんのよ!」

今度の笑いはイルカの耳には届かなかった。頭がぼうっとなって、それ以上の声は
耳に入らなかった。とにかく、急いでこの場から離れたい。その一心で、女たちの横を、
一礼して走り去った。

眼が冴えて眠れなかった。
窓の外では月が煌々と照り、隣で寝息を立て始めた恋人の輪郭を、淡く浮き立たせている。

『白い狼』……昼間聞いた女たちの言葉が忘れられなかった。
素敵。確かにそうだ。女なら、誰でも憧れる存在であることに間違いはない。
強くて、――――美しい。

例えその過去に、誰にも想像の付かない苦しみや不幸を背負っていたとしても、天から与えられた
才能は妬ましいばかりだった。

忍としての天才、逞しい肉体、穏やかな佇まい、里を守ろうとする情熱、敵を見る冷徹な瞳。


―――何でこんなところにいるんだろう、この人は。
ふと、笑いたくなった。

何でこの人とこんなことをしているんだろう、自分は。


大きな溜め息が逃げていく。


と、ふとカカシが手を伸ばし、そっとイルカの頭に触った。
そのまま少し力を込め、髪を撫でる。

「ん…」

夢でも見ているのだろうか。指は小さく小さく動いて、やがて首の後ろに回り、そこで
止まった。顎を上げれば唇が触れそうな場所で、そっと口が開き、声を出す。


「しの……」


まるで起きているような、はっきりとした声音だ。
しの、と。
確かにそう、呼んだ。

頭を預けたまま、身体が硬くなった。
誰を――夢に見ているのか。誰を慈しんでいるのか。
そこではっと気が付いた。

―――きっと自分と同じ様に、髪の長い女なのだ。

『花街辺りには……』
『カカシ先生の相手になれるなら……』

別に。この人は俺だけのものじゃない。そんなことはわかっているつもりだ。
だけど、そんな人がいながら何故俺なんかと。間違えるくらいならその人のところへ行けばいいじゃないか。

もしかしたら……自由には会えないのだろうか。
会えないときの、身代わりなのだろうか、自分は!?


再び静かになった身体の横で、心臓が、煩いくらいにとくとくと打ち付けた。



この髪のせいか。

唐突にそう思った。
髪のことなど今まで気にしたこともなかった。一番手入れの要らない、ただ、まっすぐに伸ばしただけの
スタイル。さっとまとめれば邪魔にならず、いざという時にはすぐ外へも出られる。周りには、始終髪結いの
ところに出かけている洒落者もいないではなかったが、自分は違うと思っていた。身なりで自分をよく見せ
ようなどと。そんな考えは、自分の生き方とは一切無縁だった。今のこれは、清潔を心掛けてさえいれば、
それ以上余計なところに無駄な気を使うこともない。小さい頃からずっと同じだ。変えようと思ったことは
なかった。

『ああ見えて結構手が掛ってるわよね……全てに手を抜かない感じ』

そうだろう。この人は違うんだ。あらゆることにおいて。
俺なんかみたいな、平凡な人間とはわけが違う。
朝、さっと手を入れるところしか見たことはないが、きっと計算し尽くされた長さと
バランスなんだろうよ。

堪らず飛び起きた。カカシは変わらず、静かな寝息を立てている。
いくら便利がよくても、女の身代わりになるのは御免だった。
こんな……髪のせいで。
別に拘っているわけではない、今まで考えてもみなかったというだけのことだ。
短ければ短いで、何とかなるだろう。

窓際に走って、脇差を抜いた。月明かりを頼りに片方の手で乱暴に毛束を掴み、もう片方で
真ん中辺りに刃を当て、思い切り引く。

その手首に強い力が加わった。

「なにやってるんですか、イルカ先生」

あっという間にカカシに押さえ込まれている。

「はは。流石ですね。刃物の気配は、寝ていてもわかると見える」

情けないことに、声が震えている。

「何をやっていたのかと、聞いてるんだ」
「何だっていいでしょう、そうだ、散髪ですよ散髪」
「こんな夜中に? 灯りも点けないで?」
「暗い部屋で、落ち着いて髪を切るのが俺の趣味なんですよ、ほっといてください」

手首を締め付けていた力が弱まり、イルカの指先から刀が零れ落ちた。
布団の上で、力を失くした武器が、ぼとり、と鈍い音を立てる。

こんなことすら……満足にやり遂げられない――――

胸の中が焦げるように痛み、その場に崩れ落ちそうになったイルカを、カカシがそっと
抱き止めた。

「どうしたんですか。何か、あった?」
「別に何も」

カカシが少し身を離し、改めてイルカの全身をさっと検分した。

「ああ。こんなに切れて……大事な髪なのに」
「……っ! 触らないで下さい!」
「イルカ先生?」
「しのさんじゃなくて済みませんねっ」
「ん? しの?」

どうしてこういうとき、黙っていられないのだろう。
どうしてもっとものわかりのいい、恋人でいられないのだろう。
どうして……
カカシ先生を自由に遊ばせて上げられるだけの度量が、

俺にはないんだろう。

下を向き、歯を食い縛り、それでも聞くことをやめられない。

「誰なんですか」

カカシが言葉を失った。何を聞かれているか、わからない様子だった。

俺が追い詰めた……
もう、終わりかもしれない。



やがて静かにカカシが口を開いた。

「それは某所の女性です」

やっぱり!

「歳は5歳」
「え?」
「この間の任務先で会いました。テロに巻き込まれ親を二人ともいっぺんに失くして」
「……」
「途方に暮れて、泣くことも出来ないで。ちょうどあなたの様な、綺麗な黒髪でした」

何……

「俺は何にもしてやれなくて、勿論そこに残ることもできないから、せめてその髪を
撫でて抱きしめて、後は医療班に任せて帰任したんです」

そうか。

「ごめんなさい。俺が何か、イルカ先生を苦しめるようなことをしましたか」

思い切り頭を振った。
なんてことだ……。俺は――

カカシが、イルカの耳の横にもう一度指を潜らせながら、小さな声で言った。

「これは……出来れば切らないでいて欲しいなあ」

長い指が、黒い絹糸をそっと掬って滑る。

「カカシ先生」
「駄目ですか? こんなこと言うのは図々しいと思いますけど、出来れば、これを解く悦びを、俺から
奪わないでもらえると有り難いです」
「え?」
「いつもドキドキしてるんですよ、これでも」
「なに?」
「俺は本当に受け入れられてるのか。俺は本当にこの人を、欲しいといっていいんだろうか」
「……」
「でもあなたが、俺のすぐ前で、硬く結われた髪を大人しく解かれてくれると、ああ、いいんだな、
今日はまだ、いいんだなって思えるんです」


「帰ってきて本当によかった……そう思えるんです」


月を背中に、たくさんの傷を負った男の顔が見えた。
額の辺りには、消える間のない面の跡が、その周りには面から毀れた返り血が、
閉じた瞼の裏には失くした左眼が……ほかにも無数の刀創や、感情を押し殺しながら流した涙の
跡も見える。

普段は決してその片鱗さえ見せない、男の背負う苦難が、はっきりとそこに滲み出ていた。

寂しそうな瞳がじっとこちらを見つめている。

イルカは思わずカカシに飛びついた。


「カカシ先生!」
「え? はい」
「ごめんなさい、俺が悪かったです」
「イルカ先生?」

駄目だ駄目だ、そんな顔しちゃ! カカシ先生!
あなたはいつも、堂々として、満ち足りていなくちゃいけないんです!

「ごめんなさい、ごめんなさい」
「どうしたの、イルカ先生」

俺は。もっと大きな男にならなければ。
もう一度じっと顔を見つめ、改めてしっかりと抱き直す。
体温を感じているうち、つい感情が昂ぶり、小さく口付けた。

「もう一度、して下さい」
「え?」

すっきりとした硬い首筋に、鼻を擦り付ける。

カカシがゆっくりとイルカを横たえ、顔を見ながら長い指で夜着を割った。
脚を開き、そこにまだ湿り気があるのを確かめる。瞳はもう、さっきのような色を、浮かべてはいなかった。

「大丈夫?」
「はい」

口が塞がれ、腰の先が傾き、猛った塊が挨拶程度に様子を探る。
一気に貫かれて、イルカは思わず声を上げた。

「っ! カカシ先生……」

ぴたりと密着したまま、ふたりは少しの間、動かずにいた。
じわじわと、その先からカカシが沁みこんで来る。腹の奥、胸、そして―――気持ちの中へ。体中が、
カカシで一杯になる。

優しく力強い律動が始まった。

「カカシ先生、俺、は……っ」
「ええ……」
「あなたの、里に……っ、なれますか?」
「イルカ……」

最後に一際激しく動いた後、強くイルカを抱きしめ、カカシが放った。


腕の中に包まれたまま、穏やかに呼吸が収まっていく――。

カカシが一つ、イルカの額にキスをして、また髪を撫でて小さく微笑んだ。

「好きですよ」
「……はい」

優しく応えると、カカシは安心したように眼を閉じた。
その髪を今度はイルカが撫でて、それからふたりでようやく本当の眠りに付いた。

















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