<a standard pain>



「今からこの山へ?」
「ええ」
「悪いことは言わねえ、やめときなさい」
「……」
「魔獣が出るって話だで」

小さな村の外れにある、山の麓の茶屋だった。
すでに夕暮れが迫り、辺りは茜色に染まっている。

「でも早く行かないと母が!」
「お前さんの身に何かあっちゃあ元もこもねえだろう」
「それは……」
「女子供でも容赦しねえって話だよ」
「だけど、その人は、“海賊狩り”なんでしょう?私は海賊じゃありませんから!きっと大丈夫です」
「何言うんだ。傷負ってもう何日も隠れてるってんだろう? 腹も空かしてるだろうし、あんたなんかが一人で行ったら何されるかわかんねえ。命は大切にしなさいよ。せめて一晩待って明日の朝に」
「……」

茶屋の主人の気持ちは有り難い。
だが、わが身可愛さの余り躊躇って、このまま永久に母と会えなくなることは耐え難かった。
今は一刻も早く、反対の里にある家に急がなければならない。

幸い今日は満月だし、私は多少だが刀も使える。
足も速い。


色々な噂を聞いた。

今までに殺した海賊はもう何人だか、数え切れないらしい。
時には海賊以外のものも斬るらしい。仇討ちに来た家族は女房でも子供でも、年老いた親でさえも容赦なく斬るらしい。
自分は討った相手の頭だけを持ち歩いて、残りは犬にくれてやったりするらしい。
国で一番という呪術師の妖術も、魔女の呪いも山伏の祈祷も、何一つ効かないらしい。

いつも血の匂いがするらしい。

抜いた刀の刃は赤く、それは拭っても拭っても取れない血の沁みらしい。

…… ……


だが、例え魔獣だろうとなんだろうと、所詮は流れ者ではないか。負けるものか。
長い間離れていたとは言え、ここは私の縄張りだ。
そして道は一本しかない。

「ご馳走様でした。お代はここに」
「ああちょっと、あんた!待ちなさいよ!!」

主人の叫びを振り切るように、奥歯を噛み締めて走り出した。
夜が遠慮なく辺りを支配し始めている。
当たり前だ。自然が人間に、気なんか使うわけはない。
それでも私は行くのだ。

走りながら両手に息を吹きかけた。
脳裏に、いつも朗らかだった母の笑顔が大きく浮かぶ。

あれほど言ったのに。無理するから。
近くでみていてやれなかったことが悔やまれる。

悪かった。悪かったよ!
だから待ってて母さん!私が行くまで!



息が切れると歩いた。
虫の音がきれいに響き、月の光も、深く生い茂った木々の合間から真っ直ぐに届いている。

静かだった。

自分の足音が穏やかに聞こえ、気持ちは次第に落ち着いた。
怖くない。変わってなどいない。
小さな頃、いつでも私を包んでくれた、森そのままだ。

だが、ほっとして思わず夜の空気を深く吸い込んだ時、返そうとする吐息が何かに阻まれた。

――っ!!?
しまった!

目の下に大きな手が見える。
酷い匂いだ。

ああ、どうしよう!
あっという間に抱き込まれ、地面に抑えつけられて、身体中を探られた。


なんだー、大して持ってやがらねえよ。

やるだけヤって髪だけでも売るとするか。

歯はどうだ?物になりそうか。

なんなら前もって抜いちまえ、その方が好都合じゃねえか。ひひひ。

やめとけ、気ぃ失っちまう。


お。よく見りゃ上玉じゃねえか。

――ついてるなァ、おい!


着物が荒々しく剥かれ、熱い手がぎゅうぎゅう身体を掴む。
口を塞がれ、唾を吐きかけることもできない。

だがおかしい。
何人いるのだ。

魔獣……一人ではないのか。

乱暴に裾を捲られながら、必死に考えた。

これを我慢しても、どの道私のことは殺すつもりだろう。
今私は死ぬ訳には行かない。
どうあっても逃げ延びなければ。

刀は……
どこ……


下履きを下ろされたところで急に感覚が戻った。

ぁぁ。あああ。

弱い声が出る。吐き気がした。

やめて。やめてやめて!!


その時不意に、自分を見下ろしていた顔がつ、と斜めにずれた。

え……?

僅かに遅れてびしゃっと何かが振ってきて、崩れようとする背中を黒い影が横から勢いよく蹴飛ばす。
ぱさ……どさ! と時間差で草が鳴った方を見ると、胴体からだいぶ離れた所に、頭が、表情を少しも変えずに転がっていた。

!!!

木の上から降ってきたように見えた影は、着地すると、何かをきらめかせ、二度三度と振るった。

ぐわああああ。
あーーっ。
ひぃい!

見る見る人がバラバラになっていく。
次々に飛び交う色々な物の真ん中に、殆ど動かない緑色の何かが見えた。



突然静かになり、

その緑が迫ってきたかと思うと、自分のすぐそばに立った。
逃げようと思うのだが指の一本も動かない。

緑が覗き込む。月の光を身体が遮り、顔がよく見えなかった。

そのうちに、自分が何かを尋ねられていることに気付いた。

「大丈夫か」

誰?誰なの?お前は……
口がガクガク震えて、言葉が出ない。

「あ……ぁ……ぁ……」
「立てるか」

ようやく背は起こしたものの、それ以上はどうやっても身体が動かない。

早く……行かないと……
寒い。寒いよ。お母さん。
身体中に震えが回る。

その時不意に男の向こうに別の人影が現れ、いきなり振り被った。
緑の男は少しも慌てず、逆刃にした太刀を勢いよく後ろに引いて、そのまま真上に上げた。
背後を襲おうとした男は、両腕を高く上げた姿勢のまま胸の辺りから肩口までを綺麗に二つに割り、やはり表情を少しも変えずにどうっと後ろに倒れた。

そこまでだった。
堪らず嘔吐して、気が遠くなった。
膝が折れ、身体が頽れるのがわかったが、どうしようもなかった。




次に気付いたときには体がなんだかふわふわしていて、そのうちにようやく、自分が抱き上げられていることに気が付いた。

いけない!さっきの緑だ。
何をする気だ。どうしよう、逃げなければ……

抵抗したいのに、力が全く残っていない。
恐る恐る、自分を抱える男の顔を窺う。

――――意外だった。
さっきの一味とはどこかが違って見えた。
泥と、血と汗に汚れてはいたが、額と頬の辺りにはまだあどけなさが残っているくらいだ。

そして、思いつめたように厳しい表情の中で、両の眼は美しく清んでいる。

腕の中の変化に気付いたのか、男が視線を向け、黙って頷いた。
足は止まらなかった。
進む先は……このまま行けば自分のふる里だ。


――――――突然、自分は男に助けられたのだとわかった。

胸の音は酷く穏やかだ。大丈夫。この人は大丈夫。
危なくなんかない。
―――大丈夫。

そのまま、温かい腕の中で眠りに落ちた。








朝になり、深い靄に包まれた里では、娘の帰りを待ちかねた家族や、近隣の者たちが病人の家の前に集っていた。
そこへ、突然涌き出るように現れた人影を見て、全員が思わず息を飲んだ。

頭の天辺から爪先まで、何かわからぬものでどろどろに汚れている。
本当に人なのか。
山から出てきた鬼ではないのか……
それが、なぜあの子を抱いている??

みな凍りついたように動かなかった。
突然、一人の少年が叫んだ。

「姉ちゃんを、離せ!」

家から持ち出してきたのだろうか、小さな木刀を構え、両目を一杯に見開いて、娘を抱える男を睨みつけている。
身体が傍目にもわかるくらいぶるぶる震えて、刃の先が定まらなかった。

「今すぐ姉ちゃんを離せこの野郎!!」
「アキオ!やめとけ」
「うるせー!てめえ姉ちゃんに何をした!俺が相手んなるぞ、掛かって来いっ!!!」

男は少年の方を向くとゆっくりと近付き、娘を降ろした。

そうしてみると、元は白かったに違いない上着は、すでに色の変わった血や、脇の辺りに新しく滲んだ鮮やかな血の両方で、酷く汚れていることがわかった。

重そうな三本の刀。
土埃に塗れてはいるが、頭は緑に見える。

これが……
海賊狩りの魔獣。
ロロノア・ゾロなのか。

「姉ちゃん!姉ちゃん!しっかりしろよ!!畜生っっ!!!」

飛びかかろうとする少年を里の衆が三人掛りで抑えた。

「この……ケダモノ!」

大人たちは遠巻きにして、山から出てきた獣を恐ろしげに見つめるだけだった。

「違……う、その人は……」

気の付いた娘が横たわったまま必死に止めようとしたが、掠れた声は人々の耳に届くには小さすぎた。

山の獣は立ち止まったまま、一言も喋らずにいた。
足を一歩踏み出すと、ざわざわと空気が揺れた。

「これ以上里へ入るな!」

女の、緊張した声だった。

「お若いの」

今度は端の方に居た老人が口を開いた。

「どうかこのまま立ち去られよ」

皆で、元居たところへ帰れと言っているのだ。
これ以上ここに立ち止まらず、そして進まず、元の山へと。


獣は体の向きを変えると、静かに今歩いてきた道を逆に戻り出した。

「海賊狩りが……エライと思うなよ!」

敵意が逸れたとわかった途端に貧相な野次も飛んだ。

「所詮はただの」


「人斬りじゃねえか!!!」



獣は走り出した。







刀を納めた鞘同士がぶつかり合って、煩く鳴った。
これがここにあるのでは走り難い。そう思うのは初めてだった。

三本を纏めて握る。
憤り、喚き立てる気を宥める。

諦めろ、それがお前の性だろう。

でも!

刀が、名刀であるはずの和道一文字までもが、聞かぬ風に、それぞれ激しく身を揺らす。


動じるな。
迷うな。

お前の道だ。

友に、師匠に、己に誓った、お前の「行く先」ではないか。



ゾロは祈った。

自分以外の何かを、自分とは離れたところに感じ、それに縋ろうとしたのは初めてだった。
そのうちに、実際に言葉が口をついて出た。


神でも鬼でもいい、

俺に力をくれ。
俺に力をくれ。


俺に、

力を、


くれ。




俺に、   力を、     くれ。















綺麗な月だ……


倉庫の整理を終え甲板に出てきたサンジは、
冴え冴えとした空気の中、空を見上げ感じ入った。
まん丸で……まるで鳴っているような、輝き。

物凄く上手く焼けたスポンジケーキを思い出したりした。


さて、夜食夜食っと。

切れかけていた調味料を手にキッチンの扉を開けると、テーブルに突っ伏して眠るゾロが見えた。

俺を求めてやってきたのか。喰いモンを求めてやってきたのか。
だが結局は、寝たんだな。
俺はそんなにテメエを待たせたのかよ。

火の点いていないタバコを口先で動かしながら、サンジは回り込んでゾロの顔の方へ足を向けた。

両腕の上に頭を乗せ、横を向いて、
ゾロは静かに嗚咽を洩らしていた。

眉間にしわを寄せ、小さな子供が何かを失くした時のような顔で。

開いた口の端からタバコが落ちそうになり、慌てて取り戻して、言い訳をするように咥え直す。



瞬時、自分の立つべき位置を見失った。


この男が今、夢に見ているものは胸に抱えているものは、
何なのか、その事に俺が気を回していいのかそれともやめておくべきなのか。


ゾロ。

サンジは空いている方の指先で、ほんの少し、撫でるともいえない位微かに、ゾロの髪に触った。

せめて、今いるそこから、早く抜け出てくれれば。
そう思うのも余計なことなのか。

ゾロ。


ぱちっと目が開き、驚いたような顔がサンジを見た。

サンジは手を引くことなく、そのままゾロの頭を軽くぽんぽんと叩いてから、そっと掌で包み込むと、「肉と魚と、どっちがいい、夜食」と静かに聞いた。

ゾロは真っ直ぐに体を起こして、新しく頬を伝った一すじの涙を拭いもせずに、

「魚」と答えた。

ごく普通の顔から出た、ごく普通の声だった。








end








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