<刃と繊毛>








尸魂界に―――


静けさは戻っていた。






だが今やその≪完璧な均衡≫は明らかに崩され、
徐々にではあったが確実に、

世界は、

球に僅かな傷を付けるようにして、



――歪み始めていた。





その≪変化≫は、

死神の心のうちに留まらず、
すでに広く流魂街の者たちの中にも不安を惹き起こしていることだろう。




山本元柳斎重國ほどの男にすら看破できなかった配下の奸計、
そしてそれを白日の下に晒したのが、こちらが「禍」であると見做して憚らなかった「侵入者」であったという事実――。

幾重にも重なった恥の色で、霊子は鈍く澱んでいた。






そして今、
久々に執務室の机の前に座る身に、

それに輪を掛ける様な、更なる異質が近付きつつあった。


これまでに感じたことのない霊圧――

決して自分を脅かすような強さではない。
瀕死の重傷から漸く立ち直ったばかりの身で再び千本桜を操らねばならぬ、
そんな緊張感を呼び起こす類のものではない。

だが、これはそれ、と素直に類別することもまたできなかった。


腹立たしいことに、胸に、微かな不安が沸き起こる。

どこの隊の、位は何の、心根のどういった、
輩であるのか、


そんなことをその男―― 護廷十三隊六番隊隊長、朽木白哉―― に勘繰らせた相手は、
これまでここには一人も存在しなかった。




「失礼します」


霊圧は容赦なく近付き、ついに声を出した。



「卯ノ花隊長の使いで参りました、四番隊第八席、荻堂春信と申します」
「……入れ」



此奴は。



「ああ〜」

大げさに眉を顰めるその顔は、常人の見せる反応とは大分違っている。
おののきもせず、それは正直に、<呆れて>いる顔のように見受けられた。




「駄目ですねえ。本当はまだ、起きてはいけないはずでしょう?」
「……」
「隊長が仰ったんですよ、どうせ地獄蝶では事足りないから直接行ってみて来るようにと」
「何を」
「ちょっと、失礼します」


言うが早いか、その荻堂と名乗った優男は、
まさかと思うほどの素早さで間合いに踏み込み、白哉の額に手を当てていた。

びくり、と体が強張るのを悟られたと知って、
白哉の背筋を冷たい緊張が走る。



「ふむ。お熱は正常、と」



「手を離せ」、と言う前に熱は逃げた。
これでは攻め入る隙がない。


呆気に取られていると、今度は琥珀色の瞳がすっきりと見つめてくる。


「お薬は?」


その奥にあるものは……


「ちゃんと飲んでいらっしゃいますか」



怒り……?


またも量りかねた。
こちらが心の底を探ろうとしているのが、わかるのかどうなのか、
いずれにしろ荻堂は頓着する気配がなかった。

かと言って、白哉の返答を待つ気もまたないようで、
その得体の知れない救護班員はそこでなぜか満足げに笑ってみせると言った。


「では傷を拝見します」


再びその体が近付いて、
今度はあっという間に、胸元に手が入る。
掴もうとすると、手は逃げて、
もう一方と一緒にすんなりと死覇装を落とし、両の肩を顕にした。


「……っ!」
「ああ」


手が再びすっ、と伸ばされ、布のすぐ上を、傷の通り寸分違わず僅かに撫で下ろす。


「滲出もない」


よかった……と甘い息が吐かれると、
体は呪縛に掛かったように痺れを訴えた。


「ではちょっとこれを外して……」
「待て」
「は」
「本当に、卯ノ花の命か」
「そうですよ。みてこい、と」
「……」
「横になりますか」


胸が大きく上下し、だが白哉はそのまま動かなかった。



荻堂の手がゆっくりと、
傷を覆う、布に触れる。

何食わぬ顔でその端を片手に巻き取り、
軽く両腕を上げさせた体の周りを、
荻堂の手と、腕とが静かに滑り出した。

背を進むときには頭が引き寄せられて、白哉の肩の上辺りに乗り、
手が引かれると、頭もまた遠ざかる。


何度かそれが繰り返されるうち、布は確かに巻き取られているはずなのに、
逆に何かに絡め取られていくような錯覚が起きた。


この、目の前の、生き物の、放つ糸に―――


そこへ急に光が差して、はっと思い目を向けると
荻堂が顔一杯の笑みを浮かべていた。


「綺麗ですね。これなら大丈夫、大変順調です」


荻堂は、一番深かった胸の傷を見ている。
そして次に躊躇いなく、自分の懐から膏薬を取り出しそれを指に少し取ると、
傷に柔らかく塗り始めた。



「もう無茶は、駄目ですよ」
「……っ」


突然胸元で吐かれた息に驚いて筋肉が収縮し、
長い髪の前の肩が震えた。


「あっ! 動かないで下さい!」

確かに。
男の細い指ですら、必要以上の圧が掛けられればそこは酷く痛んだ。



「大丈夫ですか?」
「……ああ」


荻堂はほっと息を吐くと、再びゆっくりと傷を擦り始め、口を開いた。



「今は……これが誰から受けた傷だとか」


あくまでもその場所を見ながら吐かれる言葉の意外さに、白哉は、
こちらもまたあらぬ方向に向けていた顔を思わず落とす。


「何のために戦うだとか、何を守らねばならぬとか」


臆しもせず、この自分に向かって一体何を。
精一杯に鋭い眼を向けてみるが、荻堂はびくともしなかった。


「そんなことは、考えないで下さい。その方が早く治ります」


手早く包帯を巻き直して、
改めて荻堂はその上から白哉の心臓の辺りをとん、と指差した。


「治るまでは一つ、ここに正直になりましょう」


破道を放たれたわけでも、縛道を仕掛けられたわけでもない。
だが、その指先に触れられた場所は燃えるような痛みを訴え、身体は微塵も動かなかった。
声すら、出ることを拒んでいた。


「ねえ朽木隊長? それにしても……綺麗な髪だ」


胸に当てられていた指が離れ、顔の傍を流れていく。


「フフ。明日も来ます。それでは」



荻堂の去った後には、花のような香りがいつまでも漂っていて、
眩む眼の奥で、白哉は、

果たして自分の胸の内に正直になるとはどういうことなのか、
そもそも何故、自分はあの男の言うことを馬鹿正直に聞くだけだったのか、


思いを巡らしたが、疲労が邪魔をして、それを秩序立てることを拒んだ。


「一体……」



だが、試しに胸に手を当ててみると確かにそこは暖かく、
次いで瞼の裏には色々な顔が滲んでは消えた。

それが次第に心を落ち着かせ、
それまで懸命に保っていた矜持の支えがふと緩む。

白哉は執務を中断し、
気が付いて着物をいい加減に戻すと漸く横になって、

暫しの眠りに付いた。

最後にもう一度、先刻の、ふわりとした花のような顔と、
焼けるような指先を思い出した。

















イチゴにやられた直後のお兄様。
色々と混乱中のところを襲われた!(笑)

荻ちゃんは「見ていらっしゃい」と言われただけで、
何も本当に「看る」必要は、実はひとつもないのであった!悪い奴!(二笑)










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