<浄化の先>




階段は、酷く湿っていた。
苔なのか塵なのか、
足を落とすたびに、虫を踏むような不快な気分が体を走る。


どこまで降りたらいいのか、皆目見当が付かなかった。

ふと気が付くと、真っ先に鼻を突いた黴の臭いも既にその鋭さを失っている。


手の内から消えて数年。二度と叶うことはあるまいと思っていた再会を果たし、
膝を折って身を震わせたディーノの想いを完全に拒絶して、ザンザスはまた性懲りもなく
悪計の実行に奔走し始めたが、ディーノの目には、それはザンザスが必死に、何かから
逃げようとする姿に見えた。

足元を焼こうと迫る火から少しでも遠く離れるため、目を血走らせながら駆け続ける。
執拗な追っ手から、逃げて、逃げて、だがついに逃げ切れず、追い詰められて、
今ここに大罪人の皮をすっぽりと被せられ生かされている。


殻に押し込められたザンザスなど、全く想像が付かなかった。

そのせいで、今では滅多なことでは動じることのなくなった心も流石に少し緊張していたが、
いつの間にかその強張りも解け、何だか頭がぼんやりしてきた頃、ようやく最後の一段を
踏み終わり、足元が平らになった。




どこかで水の音がする。


この場所が地下のどれほど深いところにあるのか、聞いて識った時は「ほう」と思った
だけだったが、実際に身を置いた今、その気味の悪さに足は自然に動きを止めた。

暗く、寒く、穢れている。それだけではなく、何百年も耐えてきたはずの石が、
今にも崩れてきそうに思えて怖気がつく。

軽い身震いが生まれ、腕の跳ね馬が小さく嘶いた。




牢は幾つも並んでいたが、今、中に人のいるのは一つだけだ。




水の音が近くなった。


他のセルと全く変わらぬ生気のない一角に、
確かにそれは蹲っていた。

目を疑うことはない。
それくらいのことは想像していた。


ディーノが足を止めても、全く動く気配がない。


預った鍵を使い、中に入る。
近付いて漸く、体はこちらを向き、その上に頭が乗っているのだとわかる。


「よう。まだ正気か」


ザンザスの横には、律儀に並べられた二つの皿が手付かずのまま残されていた。
暫くその様子を眺めてから声を掛けてやる。


「食わねえなら俺が持ってってやるよ」


意外にも、し尿の臭いはしない。
実に綺麗なものだ。
まだこの男が、必要なときにはちゃんと体を動かしていることがわかる。
触れかかっている気の隅に、辛うじて、形だけは保った矜持を懸命にぶら下げて
いるのがわかる。

何のプライドだ。
そいつはいつ、身に付けた奴なんだ。

ディーノは一瞬でザンザスの身の上を振り返り、
酷く悲しくなった。



また暫く黙ってから、口を開く。


「なかなか死ねねえモンだろう?」


言ってその真正面に進み同じポーズを取り向き合うと、
伏した頭が漸く微かに上がってディーノを見た。


「何を誓えって?」
「……」
「お前は、何を約束すればここから出して貰えるんだ」


答えの代わりに、乱れた髪の間から覗いた瞳が、ほんの少し光を帯びた。


「La mia panter……」

ディーノは手を伸ばして、ザンザスの、艶を失った髪を撫でた。
不思議なくらい、汚れていない。
必死に守ろうとしている矜持と同じに、そこもまた高潔だった。まだ高潔だった。

固く閉ざされた腕をこじ開け、冷たくなった指を手に取る。同じだ。
細く、長く、昔と変わらず芳しい。
その気になれば、まだ簡単に炎を生み出すことが出来そうに見える。


ザンザスも見ているその手に一つ口付けてからもう一度指を閉じ、
膝の上に戻してやる。


ゆっくりと腰を上げると、追った瞳の中に微かな狼狽の色が浮かんだ。



「死ぬなよ」




動かぬ塊を置いて、再び外に出る。
鉄柵を両手で掴み、暫く眺め、漸く体の向きを変えたとき、

物凄い勢いでザンザスが迫ってきた。
体当たりされた鉄が共鳴し合い、地下中に響きを上げる。

ディーノは戻って、指を差し入れ押し当てられたザンザスの顔を撫でた。

口が開く。やっとのことで絞り出した声は酷くしゃがれていて、まるでドアが軋んだようだった。


「ディーノ……Mi salvi……」


それきり音を失くした口元を眺め、
柵越しに顔を近づけた。

触れる瞬間、僅かに角度を変え眼を閉じる。
開いた唇の中で優しく舌を探ると、口の端から確かに甘い息が漏れた。
最後に丁寧に食み、離れてもう一度おまけの一つを軽く落とす。
と、無表情なままの瞳から涙が一筋零れ落ちた。


鼻を触れ合わせたまま告げる。

「死ぬな。お前はまだ大丈夫だ」

言って今度こそ本当に離れようとする顔を指が尚も追う。
ディーノは一つ瞬きをすると言った。


「なあザンザス。愛ならいくらでもくれてやるぜ?」



途方に呉れ、水に沈んでいくような顔になったザンザスを置き去りにして、
ディーノは再び足を、虚構のごとき世界に向けた。






end



*panter:黒豹。

囚われて暫く経った頃。門外顧問辺りに「ちょっと様子見てきてくれよ」等と言って頼まれ
好奇心半分愛情半分で見に行った跳ね馬だったが、ザンザスが変わっていないことにほっとした。
これならまだいける。まだまだ、こんなものでは赦さないと決める。(笑)

イタリア語がよすぎて癖になりそうです(二笑)。



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