<炎天回帰>



始めから手に入らねえとわかっているものを見せ付ける残酷さ。

昔からそういうところはあったが、別にナミに悪気はない。少なくとも俺はそう信じてきた。



いつだってそうだった。
黙ってりゃわからねえ、親戚のお兄さんからもらった取って置きのビー玉とか、
企業系作文コンクール全国大会優勝の何番目だかわからねえ副賞、
キャラ付き飛行機搭乗記念1/100スケールモデルとか。
こっちが頼んでもいねえのにほんとに嬉しそうに見せに来て、だからと言って、あたりまえのことだが
けっしてそれをくれるわけじゃねえ。
存分に振る舞い気が済むと、あくまでも手際良く、手品宜しく俺の目の前からすっと
消して見せる。

取り残された俺は消化不良を起こしつつ、でも別に意地悪されたわけでもねえし
(実はされてたと思うが)と、煮え切らねえまま、終わる。

『何も困らせようとしてるわけじゃねえ。』

俺は自分を護るために、健気に我慢して自らにそう言い聞かせた。

まあ、均して言やあ、至極面倒見のいいよく出来た姉として、立派に世間に通用してることは
重々承知だったしな。









だからその時、


俺は初めてナミを恨んだ。







「紹介するわ。こちらエース。近々結婚することになったのよ、私たち」


どうも。と照れたような顔を軽く下げた男の上半身が眩かった。


『ヤバい……』


頭をぶん殴られるような衝撃と共に俺が感じたのはそれだった。

夏のホテル。そのプール。
監視員のバイトをやってた俺が休憩中のところに、突然、ビキニ姿のナミが
その男を連れてやってきた。

その頃の俺はもう、自分が人とはちょっと違ってる事に気が付いていて、途方に呉れたり、
いつか誰かにバレるんじゃねえかと時折びくついたりしながら、身体の芯から湧き起こる欲を
宥め賺す日々を送っていたわけだが、


男は。

その筋のグラビアに登場するモデルたちが揃って蒼褪め、そのままページから退散するくらい、
きれいで、エロくて、充実してて、触り心地がよさそうで、いい匂いがした。
それでいて全くわざとらしくない。これ見よがしっつーところは欠片もない。
だからこそ、なんだろう。その存在は、素早く、殆ど止める間もなく真っ直ぐ、しなやかに、俺の身体の
真ん中にまで深く浸透した。


『マジでヤバい……』


ぼうっと見とれる俺を、ナミがやんわり、咎めるような眼で見ている。
はっと我に返り、大急ぎで、耳から入った方の情報を呼び起こした。


「けっ……こん?」

はっきり言ってどうでもいい。
とは言わないが、なにしろ横の男の存在が強烈過ぎて、
その意味がよく理解できない。

「そうよ?」
「また……随分急だな」

漸くそれだけを言った。表面上は、まともに聞こえただろう。



俺に2を足して、今年はもう誕生日が過ぎてるから、ナミは今19だ。

「お、親父たちには……?」

俺は漸くきちんとナミの方を向いて尋ねた。

「まだまだ。アンタが一番。ラッキーだと思いなさい?」

何がだ。

男は俺とナミを交互に見て、胸が痛くなるほど魅惑的な表情を振り撒いている。
そうだな。今日、この顔を見られたことはラッキーだと言っていい。

「けど、学校は」

俺は男の瞳を見返しながら聞いてやった。

「休むわよ〜。その間に子供ちゃかちゃか生んで、ヤンママやっちゃう〜」


は?ヤンママ?また随分と古めかしいな。だがなるほど。
シナリオは全て出来上がってるってわけか。まあ当然だな。

睨みつけるように見る俺を、姉を浚って行く馬の骨に対する嫉妬と勘違いした男が
少々申し訳なさそうな顔になった。

「宜しく頼むよ。ゾロ」
「!」


息が止まるかと思った。




何故だ……



何故俺の名を。





そうか、ナミに聞いたのか。そうだよな。


……何を……どれくらい話したんだ。
アンタ、俺の、何を知ってる?
こっちはまだ、さっき聞いたばかりのアンタの名前が頭の中をぐるぐる回ってて、
肚に落とすことさえ出来ねえでいるのに。



しかも。


その、

声の、


予想外の甘さはどうしたことだ。



男の発した自分の名前が、男の名前を追うように、
頭の中で回り始めた。




続けて手なんか出してくるような気障な奴じゃなくてよかったと思った。
もっとも、出されたところでそれを握り返すことは出来なかっただろう。
触ったりしたら、あっという間に心を浚われることは目に見えていた。



俺は曖昧に目を伏せた。
エースは少し笑った。


その瞬間、俺たちの間にはまだ十分な距離があったはずなのに、
俺はエースを、ナミの男を、近い将来兄貴になるはずの男を、

好きになったことが分かった。










いつもながら、その行動には無駄がない。
同じ日の夕食の席で、ナミはいきなり、「お父さんお母さん、私結婚しますから」
と切り出した。

三対一でも、俺たちはナミに全く歯が立たなかった。
そのうちの二は確かに実の親であり、ナミの生存の元になったはずなのに、
何故か完全に当たり負けしていた。

がっつり固まる空気の中、全く動じないナミが、これまでの経緯とこれからの計画について、
立て板に水の如く喋り続ける。


「……職場の人に聞いたんだけど、同僚を庇って自分が火に飛び込んだことも
あるらしいのよ。素敵でしょう〜〜」

そいつは『無茶』とは言わねえのか?突っ込みたかったが俺はまた我慢して、代わりに、
ナミによく似た顔を持つ、親父の方を振り返った。
ショックで口もきけない様子だ。
それに比べてお袋の方はまだましだった。何とか姿勢を立て直し、ややヒートアップする兆しを
見せた。だが、そうしながらも結局、俺たちは互いの間にお決まりの通奏低音が流れ始めて
いることを感じ取っていた。



奴はやる……

止めてもどうせやる……



「アンタまさか、出来ちゃった婚なんじゃないでしょうねっ!」

辛うじてお袋が、無意味とわかりきってる反撃を繰り出したがあっさりかわされた。

「やだお母さん、さっき説明したじゃないの。出産の時期はちゃんと計算してあるわ」




文字通りの完敗だった。そのまま、今週の土曜に本人が挨拶に来るってとこまで喋って、
まるで事業報告を終えた総務部長みたいな顔でナミは自室に戻って行った。



親たちは狐につままれたような有様ながら、さすがに戦況はよく理解していた。
なんであいつはああなのか、今更お互いのせいにしても始まらない。
後は少しでもましな男が来るように、神棚と仏壇に向かって祈る位しか残されていない。
それでも、最後に母親が未練たらしく漏らした大きな溜め息の音を耳の後ろで引きずりながら、
俺も静かに退散した。





夜が更け、布団の中で男のことを考えた。

あの声が、ナミを呼ぶんだ。

ナミ。
ナミ。



……ゾロ。


一度聞けば十分だった。声はまだ頭の中を廻っている。



どんな風に手を伸ばすんだろう。
どんな風に触るんだろう。


アイツの指は……



あの声に釣り合うのは、繊細な動きだ。
そっと近付き包み込む……いや、肌すれすれのところを撫でてくる
かも知れない。


その時アイツは指の方を見ているのか、それとも顔か……
あの腕で力強く引き寄せ、耳元で囁くのか。

皮膚は随分滑らかそうに見えた。
帰り際に背中の様子も焼き付けた。


腰がきゅっ、と締まってた。




……ああ。




身体は、柔らけぇのかな。力は強いのか。
あれだけ鍛え上げてあるんだ、多分そうなんだろう。


もし。

壁に押し付け自由を奪い、強引に口を塞いだりしたらどうなるだろう。
大人しくそんなことさせるわけねえか。



だけどもし。


もし、そうできたら?



怒んのかな。そりゃ怒るだろうな。いきなり殴られるかもしれねえ。
そしてナミに殺される。挙句もしかしたらそれが原因で破談? 
一挙両損か。そんな諺ねえよ。

けど、もし、

いや、もしも、だよ。



もし、うまくいったら?



事情が事情だ、人には言えねえ。結果、“二人の秘密”になったとしたら?



困ったような、顔をするだろうか。





……駄目だ、止まらねえ。




思わず布団を被ったら、噴き出した自分の熱気で息が詰まりそうになった。







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