<ふたたび>







温かく柔らかな陽に、山間の里全体がゆったりと包まれている。
稽古の帰り道だった。
心なしか、空の色が《傾いて》いるのがわかる。いつもより小一時間ほど早く上がったのに、
辺りは既に夕暮れの気配だ。ゆるゆると漂う空気の隅に一筋の鋭さを感じ取り、ゾロは僅かに目を見張った。
まだまだ暑いと思ってたが。
その鋭さを追うように、香ばしい匂いが細く漂ってくる。
―――秋刀魚!
すかさず大きく息を吸った。間違いない。どこかの家で秋刀魚を焼いている。
半月ほど前にも鈍い空気の中に同じ匂いを嗅ぎ取ったが、それは違うと思った。
人間の方も魚の方も先走り過ぎている。《出来る》秋刀魚はきちんと時期を待ち、潮目を感じ、
満を持してやってくるものだ。
命を漲らせ、網をめがけて雪崩を打って突進してくる。
それを受けて立つ。
そそっかしい連中を捕獲するのとはわけが違う。
これぞ力技だ。
まさに命のやり取り。

そうやって勢いよく引き揚げた、それを喰わなければ。
ふん、と息を吐くと腹が大きな音を立てた。
足取りが自然と軽くなる。
今日は月に一度の店休日なのだ。
サンジが家で、待っている。


あれから十五年だ。
最後の大戦争を経て、ルフィはついに海賊王になった。
見つけた《ワン・ピース》が、万人が予想していたような《宝》ではなく、《空白の百年》を埋め、
世界の歴史を一つに繋ぐ《真実》だったことに、皆驚いたが最終的には深く納得した。ひとり、
最後までぐだぐだ言ってた奴がいないでもなかったが、皆そっと肩を叩いてやり過ごした。

「あたしの! お宝! ああああああああ」
「ナミ」
はぁ、と零れた溜め息は、本物の同情を孕んでいた。
「おめえも大概不幸な女だな。けど仕方ねえ。諦めろ」
「だって、ウソップ〜〜〜〜〜〜」

そこからさらに進んでグランドラインを抜け、
麦わらの一味は解散した。



ゾロは暫定の《世界一》となった。
闇に葬られていた不条理を白日の下に晒し、世界をあるべき姿に戻した男。
新海賊王、モンキー・D・ルフィ。
その一味であり、共に戦った剣士を世界最強だと認めることに、世間の誰もが吝かではなかった。
事後は皆、最高の敬意を持ってロロノア・ゾロを《剣聖》として扱った。
それでも、当初の熱が冷めると「そんなことがあるか」とばかりに闘いを挑んできた者もちらほら出たが、
当然、ゾロは負けなかった。
挑まれれば剣を交える。だが二度と相手を殺めることはなかった。というより、早ければ二、三合で
相手の方が《察知した》。
ぎりぎりまで頑張る猛者もいたが、最後にはみな、同じようにゾロの前に頭を垂れた。
それを抱き起し、言葉を掛け、酒を酌み交わして送り出す。別れるときは全員が《弟子》となっていた。

「向かうところ、敵なし」

記念の太刀を胸に、何度も何度も振り返る修行者に手を振りながら、サンジがため息交じりに
よくそう言ったものだ。

オールブルーもあった。
ラフテルからの帰路、突如虹色に輝く海面が出現した。一番先に見つけたルフィがクルーに面白そうに
そう告げた途端、サンジの顔色が変わり、拭きかけの食器を放り出して、真っ直ぐに波間めがけて
飛び込んだ。皆驚いたが、すぐに状況を察知して、船を停め、様子を窺った。

サンジはなかなか戻ってこなかった。潜れない船長がいらいらし始めた頃、漸く水面に頭が覗き、
続いて出てきた顔にはまるで生気がなかった。
ゾロが慌てて甲板を蹴った。

「おい!」声を荒げると、ぼんやりと視線が返る。
「どうした!」
「お前も……」
「え?」
「見てみろ」

そう言って大きく息を吸い、再び勢いよく海に沈む。急いでゾロも続き、そして見た。
見事だった。ゾロでも惚れ惚れするような、色とりどりの世界。サンジは魚たちと共に、
長い時間、その水を泳ぎ回った。

「ああだけど、俺、どうしよう」

真っ暗になってから、漸くふやけ切って船に上がってきたサンジは、困りきった顔を見せた。

「こいつらを見たら何も出来ねえ」
「え?」
「食材に……見えねえんだ」

どうすっかな、どうすっかな……
何度もつぶやいてサンジは煙草を吸い、吸い終わって一言「参った」と言った。
その海の傍でバラティエと同じような船上レストランを開きたい。もしかしたらそう考えていたのかもしれない。
だが、

「やめた」 

その一言で、サニーは再び帆を上げた。
夜、倉庫に残されていた中では一番の酒を開けてサンジは静かに言った。

「あったんだからいいよ。空島と同じだ。別に誰も死んじゃあいねえだろうが、少なくとも俺とジジイの名誉が挽回する」

キッチンは不思議に静かな空気に包まれていた。全員が、サンジの独白を満ち足りた思いで聞いていたのだ。
証拠は何一つなかった。魚拓? 標本? 生簀行き……どれも端から頭に浮かびもしなかった。

「まあ……せっかくだし、場所くらいはナミに描いといてもらったらいいんじゃないか?」
「もう描いたわよ!」
「有難う、ナミさん」

だがサンジには何となくわかっていた。
この海は《動く》んだ……
いつまでもここにはねえ。
なあ、ジジイ。そうなんだろ? 
ゼフが目の裏に現れる。口元が緩み、微かに頷いたように見えた。




いよいよ船を降りるという時、サンジは少し驚いていた。
ゾロとの間に、既に《別れる》という選択肢が残されていなかったことに、改めて気付いたらしい。

「え、びっくり!」

冒険の終わりが関係の終わり、スリルの切れ目が縁の切れ目、途中でどっちか死ぬかも知んねえし? 
何となくそんなふうに思ってきたはずなのに、俺としたことがいつからこんなことに。
ぼうっと空を見上げながら、金髪を揺らして茫然自失する様を、ゾロは横で面白く眺めた。
ゾロの方はと言えば当初から、ただまっすぐに、「俺はコイツと死ぬまで一緒だ」、そう決めていたから、
ステップを下りきったその足で、素直にサンジの横に寄り添った。

「どーすんだよ、これから!」
「なあ」

ほんとにな。とゾロは思った。だが正確に言うと、別にどうでもよかった。サンジと二人なのだ。何でもよかった。
平和そうに脱力するゾロを余所に、サンジは神経質に活路を見出そうとした。バラティエに戻るか……
そう思って打診もしたが、『てめえ目指して人が押し寄せ商売にならねえ』とゼフにはあっさり断られる始末だ。

「世界的有名人は辛いねぇ……」

寂しそうな横顔に、「まあ、そう長続きはしねえって」と慰めの言葉を掛ける傍から野次馬が追い掛けてきた。
陸にいるのに海より落ち着かねえとは! 溜め息をつきながら彷徨い続ける隠遁生活が続いた。
髪を染める、伸ばす、あるいは切る。髭を生やす、髭を剃る。数々の変装も呆気なくバレた。いい加減疲れたサンジが、
二人一緒にいるから余計目立つんだ、暫く別行動にしようぜという一見ナイスな提案をしたが、
ゾロの《地獄に沈むポーズ》を目にして自ら取り下げた。

ワンピースを見つけたら大金持ちになるはずの予定が狂ったため、二人には金がなかった。
世の中が平和になり、海賊狩りはもう商売にならない。仕方なく、辺鄙な場所で、それでも食事を提供する店を見つけ、
サンジがそこで働くことで喰い扶持を稼いで繋いだ。

《店》だの《道場》だのは―――、夢のまた夢だった。


それでも、数年を過ぎた頃にはそんな生活もどうやら山を越し、あるとき、偶々立ち寄った村にあった
主不在の道場の所有者に、請われてゾロは通い師範となった。



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