<鋼の男>




私の名前はヴェリテ。小さな新聞社で記者をしています。
ボスの要求は理不尽が当たり前、耐えず部屋を漂う安タバコの煙や、何の前触れもなく突然轟き渡るけたたましい歌声にも慣れ、どうにか駆け出しを卒業して小さな記事を任されるまでになった頃です。

ウォール・マリアが堕ちました。

百年の平和が、百年の均衡が、一瞬にして破られたのです。
こんなことは誰も想像しませんでした。
壁さえ作っておけば、安全ではなかったのか。囚われの身であることに甘んじてさえいれば、生活は保障されるのではなかったのか。何故だ。一体何が起きた。
この肝心な時に、兵士たちは何をやっていたのだ!

混乱と糾弾は、程なく「間もなくここにも巨人が来る」という虞れに変わりました。
人々はパニックに陥りかけました。破壊がどうやら一つ目の壁だけで済んだらしいことが分かるとようやく収まりましたが、今度は、大量に押し寄せてくるであろう難民に対して激しく腹を立て始める始末です。
さっさと切り捨てろ、通路を塞げ! 身も蓋もない怒号が遠慮なく飛び交いました。
政府は彼らをどう処遇するのか。
私はペンを握り直して取材の準備をしました。
ところが、実際には、到着直後の迅速な隔離策、更には次の年に断行されたマリア奪還作戦によって人間の頭数は労せずして削られ、結果として、ローゼは再び落ち着きを取り戻したのです。


それから間もなくのことでした。

最初の頭痛が私を襲いました。

その夜は輪転機の具合が悪く、いきおいボスの機嫌も最悪で、思い付く限りの悪態を吐いた後、仕事を全部私に押し付けて先に社を出てしまっていました。
深夜、誰もいない編集室で一人、漸く刷り上った誌面を眺めていると、突然、頭の一部が差し込まれるように痛み始めました。視界は狭まり、脂汗が滲み、立っているのもやっとです。どうにも動けず、ただ耐えることしかできませんでしたが、幸い、そのうちに痛みは薄らぐ気配を見せました。

苦しい息を吐きながら、何が起きたのか、振り返る余裕が出来た時です。
急に残りの痛みが嘘のように消え去って、代わりに、その場所に何か異質なものの存在を感じました。
私は、恐怖に貫かれました。
もし、こんなに大きな《何か》が頭の中に出来ているのだとしたら、死はすぐそこのはずです。
反射的に手をやってみましたが、外からでは何もわかりません。そのうちに今度は、その《何か》が、実体のある出来物というより、逆に、頭の中にぽっかり開いた《空洞》のように感じられて来ました。
吐き気がしました。一体何が、起こっているのか。
自分の頭なのに、その洞の中にはどうしても入っていけない。入り口で立ち尽くすという、おかしな空想まで浮かんできます。

目をつぶって耐え続けました。するとそのうちに、耳に輪転機の立てる面倒臭さそうな音が戻ってきました。
私はそろそろと目を開け、体の様子を確認しました。びっしょりと汗を掻いてはいますが、もうどこにも、痛みも変な違和感もありません。恐る恐る、手を握ったり開いたりしてみましたが、異常はなさそうです。目の前では、擦り上がった新聞が順調に積み上がっています。
その一面の、最下段にこうありました。

【調査兵団第十二代団長キース・シャーディス氏、辞任へ】

一面とは言っても小さなベタ記事です。そこには簡単な事実だけしか記されていませんでした。日頃から、出しても出しても有効な情報を持ち帰ることの出来ない〈壁外調査〉に対し、ただでさえ風当たりが強かったところへ持ってきて今回の巨人の侵入です。軍果の捗々しくない兵団のトップとしては当然の責任の取り方だと、これはボスがさくさくと書き進めていたものでした。

その時、何故そこに目が行ったのか。
私は突然、かつて自分自身がその《調査兵団》に入りたかったことを思い出しました。
自らの命の危険を顧みず果敢に壁外に出て行く姿は、幼心には大層勇ましく映るのみで、その集団が「穀潰し」と「人類の希望」という正反対の評価を持つ意味など当時は到底理解できるはずもなく、ただただ眩しい想いで見つめていただけだったのですが、時を経るうちに、どういうわけか私は、自分がそんな希望を抱いたこと自体を忘れてしまっていたのでした。

私は、暗闇の中、そこだけが明るく見える記事を眺めながら改めて思いました。
そういえば、と。
そもそもこの集団は、どうしてこれまで存続しているのだろう。実際のところ、今までに何が調査され、どこまでのことがわかっているのか。公開されている情報は乏しく、にも拘らず兵団自体は解組されようとしない。
何故だ?
幼いころの憧れとは別の興味が、俄かに湧いてきました。
記者としての性でしょうか。そうなるともう、さっきの異常な出来事のことなどすっかりどこかへ飛んで行ってしまい、私は早々に目の前の仕事を片付けて、早速、翌日から取材を開始しました。


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とは言っても、まず何から調べるべきか。手っ取り早いのは現地に直接出向いて兵士たちの話を聞くことだと判断した私は、まず兵団に赴き、手始めに正面玄関から、辞任が決まったというシャーディス氏に面会を申し入れました。
即座に断られました。
ならば次期団長、あるいはその候補か。だがそもそもそれは、誰なのだ。受付の兵士の態度は素っ気なく、余計なお喋りに乗じるような素振りは微塵もありません。


戦法を変えることにし、私は夜を待ちました。

兵士が多く集まるバーで張り込み、少し酔ったところを狙ってまずは親しくなってみる作戦です。幸いなことに客足はよく、兵士も、比較的早い時間から集まり始めました。

「今晩は。調査兵団の方でしょうか」

ハンチングに指をやり、挨拶を試みましたが、相手からは大層胡散臭そうな目が返ってきただけでした。重ねて、兵団のことを教えてほしいと言うと、「ブン屋に話すことなんざねえよ」と、けんもほろろの有様です。
私は彼らに一杯ずつ奢り、更に畳み掛けました。直接お話し頂かなくてもいいのです。例えば、どなたになら詳しいことを伺えるか、それだけでも教えていただけませんか。
すると若い兵がつい、口を滑らせました。

「それなら……スミス分隊長あたりがいいのかな」

おい! 年嵩の方が慌てて止めましたが、しっかりと聞いてしまいました。

「スミスさん、ですね?上のお名前は……」
「奴に何の用だ」

突然違うところから掛かった声の方向に、全員が一斉に振り向きました。

驚きました。

憲兵です。翼の徽章を背負った兵士達の顔に、さっと緊張が走りました。
ここは……調査兵団のシマではなかったのか?そもそも何故憲兵がこんなところに。
私同様、座っている二人の顔にも動揺が浮かんでいます。

「お前、何を調べてる?」

その物腰から、男が幹部級であると知れました。座っていた調査兵がさっと腰を上げ、私は憲兵とふたり、その場所に取り残される形になりました。

「どこの社だ」

非常に威圧的です。私は身分を示し、咄嗟に、「次期団長の紹介記事を書きたい」と嘘を吐きました。

「エルヴィンの?」

それが上の名のようでした。

「エルヴィン・スミス―――分隊長。ですね?」
「……」

憲兵が、しまった、というような表情を見せました。
これは……。最初からついています。非常に好ましい取材対象に違いありません。
お陰で一足飛びに情報が整理できました。私は、胸にゆっくりと沁み渡る幸福を感じ、顔に笑みが浮かぶのを抑えられませんでした。

《奴》……そしてファーストネーム。所属は異なるものの、知らぬ間柄ではないのでしょう。
件の兵団の中枢に一気に迫れる予感が生まれ、昂奮を覚えました。

「この時期に次を引き受けようという人物に、大変興味があります。一体どんな方なのでしょう」
「ハッ、物好きな。そんなこと、調べたってどうせ大した記事になどならないぞ?そんな基本もわかっていないのか。お前、何年生だ」

さすがに腐っても幹部というべきか、咄嗟の回避策は見事―――そう思いかけた時、彼が言葉を継ぎました。

「俺の知る限り……奴は世界で最も危険な男だ」

何か含むところがあるのか、随分な言い様です。私は彼にも酒をご馳走することにしました。

「わかってるだろうが、新米。下らんことは書くなよ」

どうやらあまりお強くなかったようです。ストレートのウォッカを立て続けに煽り、その後纏めて熱い息を吐いた憲兵の舌は、多少縺れているようでした。

「あのエルヴィンが……団長……だと?」

空ろな眼が宙を彷徨い、どこか遠い世界に入り込んでしまったような彼に、私は静かに声を掛けました。

「古くからの、お知り合いなのですか?」
「ああ! もう、かれこれ人生の半分だ」

言って憲兵は頭を垂れ、ほんの少し眉を動かしました。胸に去来する何かを包み込むような彼に、私は続けて尋ねました。

「当時から、スミス氏には……リーダーの素質が?」
「はっ、冗談じゃない。その正反対だ。まあ頭は悪くなかったがな。というより寧ろ、少々切れ過ぎるのが奴の不幸なんだ。今も昔もな」

言って憲兵は、更にグラスを呷りました。

「入団早々、講義中の教官に物凄い剣幕で突っ掛かって行った時は、みんな縮み上がったもんだ。小奇麗な顔の穏やかなインテリだとばかり思ってた奴が、突然牙を剥いたんだからな。教壇に突進しようとするのを必死に抑えたら、今度は俺にまで殴り掛かってきやがって、まったく……ただ隣に座ってただけなんだぞ?俺は。」

この人は、今までこれを、誰かに語りたくても語れなかったのか、あるいは、何度も同じ話をしてきたのか。言葉は実に淀みなく出てきました。

「ほとぼりが冷めた後も、時々酷く思い詰めたような顔を見せたり、そうかと思うと突然おかしなことを口走ったり、時には仲間の冗談にまで本気で喰って掛かっていったりしたから、そのうちにみんな奴を持て余す様になって―――友達なんか、殆どいなかった」
「あなた以外は」
「ハッ」

憲兵は、また鼻で笑いました。

「どうだろうな。俺のことだって、向こうはそうとは思っていなかったかもしれん。とにかく鈍感なバカだからな。奴が、碌に人の目も見ないで巨人と壁について滔々と自説を披露しているうちにいつの間にか夜が明けて、何でまた付き合っちまったんだと後悔したことも二度や三度じゃない。そうやって誰のことも気持ちいいくらい気に掛けず、いそいそと巨人共の懐に飛び込んでいきやがったんだよ、あいつは。マリーのことさえなきゃ、俺だって、本当は……」

口調とは裏腹に、《スミス》氏のことを語る男の顔はひどく哀し気でした。

「どうせすぐに喰われちまうもんだと思ってた。それが……ここまで生き延びただけじゃなく、《団長》だと? 政府は一体何を考えているんだ……」

最後の方はもう、ただの酔っ払いの愚痴で、殆ど聞き取れません。

「大体エルヴィンて奴はなあ!」

憲兵が大声を上げた時です。

「彼がどうかした?」
「サマンサ!」

思わず息を呑みました。酷く美しい女性が立っていました。すらりと伸びた肢体、腰まで届くような長い髪。身に纏った軍服の胸には、薔薇が二つ。―――今度は駐屯兵の登場でした。

「こんばんは」

私が挨拶すると同時に、憲兵が立ち上がりました。

「やだ。邪魔した?」
「いいんだ。丁度用は全部済んだところだ」


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こちらも古くからの知己だという彼女に、私は改めて事の顛末を説明しました。

「そう。エルヴィンのことを。彼がどんな人物か……そうね、一言で言えば、《厄介な男》。でしょうね」

女兵士はさらりと言ってのけました。

「確かに私たちは、世に言う甘い関係ではなかったけれど、彼のお陰でこの味気ない軍隊生活にもだいぶ張りが出た。だってそうでしょう? 冷静に考えればすぐわかる。こんな狭い世界で、一体何を護ろうと言うの。
それでも、彼と一緒にいるときはこの暮らしを疑わずに済んだし、そうする自分を卑下しないで済む時間が持てた。つい気を許してしまって、本当は壁の外にこそほんものの《世界》があって、広い広いそこには、綺麗な花や木や水がいくらでもある。そして、いつかみんなが、それを見ることのできる日が来る……私がそんな危ない妄想を口走ったときも、彼は邪魔をしなかった。どうしたらそこへ行けるのか、実現させるにはどれほどの手間と時間と犠牲が必要なのか。辛くて面倒なところは考えず、ただ夢物語だけを口にし続ける私を、あの人は決して非難しなかった……
何でしょうね。色々な方向を照らす、灯りみたいな人。
時が経つにつれて、彼は少しずつ舞台の中央に押し出されて行ったけれど、それでも私たちは逢い続けていた。多くのものが所有を主張するエルヴィン・スミスを、その時間だけ私が独り占めできる。こんな幸福があるかしら。
彼は優しかったわ。優しい声で私の名を呼び、優しい指で私の頬を撫でた。蒼い瞳はきちんと私のことを見つめていた……でも、髪を切っても気付かない。そういう人」

美しい人の溜め息は、それ自体に綺麗な色が付いているようでした。

「あら? やだ、こんな話を聞きたいんじゃなかったわよね? ごめんなさい、つい……」

女兵士は仄かに頬を染め、初々しい様子で付け加えました。

「そうだ、マリーにならもっと違った話が聞けるかもしれない」
「マリー?」
「さっきここにいた男」
「ええ」
「彼の妻」
「?」
「あそこもまた変わった三角関係だから……ああ、これはちょっと余計だった。忘れて頂戴。待ってね、今紹介状を書くわ」

住所はここ、と親切に教えてくれた彼女の好意を無駄にするわけにはいきません。
私は早々にスケジュールを調整して、指定の場所まで出向きました。


戸口で手紙の中身を確認した女主人は、気持ちよく中へ迎え入れてくれました。

「ご主人のお留守に申し訳ありません」
「いいのよ。あの人がいない方が、話がしやすいわ」

焼き立てのクッキーでしょうか。いい匂いが漂ってきます。すぐに女主人が、皿一杯のサブレと紅茶を持って出てきました。

「そう、エルヴィンの……」

またです。なぜみんな、この名を口にする時、同じ表情を見せるのか。

「彼は……そう、色々な意味で、《限界》を教えてくれる人だった。限界を知りつつ努力することの歓び、とかもね。私はあの人のことをずっと見ていて、やがてそれが一方通行だということに気が付いたけれど、それでもやめなかった。
でも苦しくてね。当時は随分みっともない真似もしたの。だけどある時、恐ろしいことが分かってしまったのよ。
彼を慕うのは私だけじゃない。そしてその全員が、同じ事に気付いている。
私たちは誰ひとり、最後までここから踏み出せないんだということを。
みんなこの壁の中で、自分が世界を終わらせたりしないように、息を顰め、危なっかしいバランスの上で生きるのが精一杯なの。誤解したまま《恋》をし、結婚をして、最適な数の子孫を増やす。
それが幸せ。
あの人自身は、そんな欺瞞を全力で否定する存在だった。もっと足掻け。理想を高く持て。
人にそれを押し付けるような真似はしなかったけど、あの人の顔を見ると、そう言って焚き付けられてるような気がして時々不安になったわ。
でも、《人類の希望》というのはそういう意味でしょう? 
ただ、付いて行くのは大変よ。あの人の傍にいられるのは、《全てを捨てた》人間じゃなくて、始めから何も持っていない人だけ。本当に、残酷なロマンチストよね」

温かいお茶と香ばしいお菓子の匂いの中で、硬質な空気が形をなし、ふいと消えました。
その後、柔らかく微笑む彼女から更に一筆を認められ、私は次々に人を訪ねました。



(イー二アス・クルマン氏=訓練兵団時代の教官)

「若馬が? そいつは信用できる情報なのか? ……はは、でもそうか。そりゃあよかった。調査兵団もいよいよ正念場だな。ほかに《適当な》人間がいなくなったということだろうからな。
これが吉と出るか凶と出るかは、奴が自分で決めるだろう。
それだけの力を持った男だよ。変わり者だったか? 当然だろう。それくらいでなきゃ、あそこでは生き残れん。いろんな意味でな。間違いなく、奴が一番だった」



(エリザベート・バンデンホフ夫人=元婚約者)

「婚約が破棄になったときは毎日泣いたものよ。でも今でも思うわ。あの人の妻になれたのは私しかいない。この先、世界がどうなるかわからないけれど、それは変わらないはずよ」




そこまでの取材を終えて、私の頭の中は疑問で一杯でした。
誰の口からも、正面切ってスミス氏を褒め称える様な言葉は少しも出てこない。
にも拘らず、共通してそこにあるのは圧倒的な熱情です。諦観の陰に隠れていても、やはり激情なのです。

それほどの想いを多くに抱かせるスミス氏という人物に、私は自分でどうしても会いたくなり、新しい二通の紹介状を手に、張り切って本部を訪ねました。


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入り口で少々待たされはしたものの、今回は応接室まで入ることを許されました。
初めての場所に幾分戸惑い、左右を振り返りながら歩いている時です。
廊下が暗く、反対から急ぎ足で近付いてくる人間に気付きませんでした。
向こうも同様だったのでしょうか、勿論、私が急に向きを変えたのが最大の原因だったと思うのですが、廊下の真ん中で、私たちは勢いよくぶつかってしまいました。

「おっと……済まない!」

バランスを崩した私は、つい、膝を付きました。

「大丈夫? 急いでいたもので、悪かったね。怪我はないか」

心配そうな目が覗いています。その時に見た光景をどう説明したらいいのか、私にはわかりません。

何か特別な匂いを嗅いだようでした。

何か、忘れていた空気のような……。
今まで一度も出会ったことがない人のはずなのに、どこか懐かしい印象すら覚えます。
明るい色の髪、その下の瞳。大きな安心感が、そこには在りました。

私は素直に、差し出された手に縋って立ち上がりました。

「分隊長!」

遠くから声が掛り、男は、軽い微笑みと共に一つ私に向かって頷いてから、姿勢を正して去って行きました。

今のは、一体……
しばらくぼんやりとしていた私は、やがて当初の目的を思い出し、再び歩き出しました。

扉を開けると、中に人がいます。私を見て腰を上げました。

「申し訳ないが、俺は役に立ちそうもない」

二通目の紹介状の相手の様でした。確かこちらも分隊長のはずです。
それだけを言う為に態々来てくれたのでしょうか。

「ご足労をお掛けしました」

先に部屋を辞そうとする彼に心をこめてお礼を言うと、入れ替わりに、今度は小柄な女性が入って来ました。

「大変申し訳ありません。スミス分隊長は、急な用件でたった今お出掛けになりました」

あっ、と思いました。
もしかしたら、さっき廊下で遭遇したのが……
確かに不思議な魅力のある人でした。知っていたら引き止めてみたのに、と大変残念でなりませんが仕方ありません。出直すしかないようです。
念のために、と済まなそうに顔を伏せる彼女にも聞いてみました。

「えっ、スミス分隊長、ですか?……と、とてもいい方です。いつも部下のことを気に掛けて下さり、決して無理は仰いません。お慕いしています……っ、勿論、上官として、です!」

頬を赤らめ懸命に弁明する姿が意地らしい程です。
私は微笑んで、その場を去ろうとしました。


その時です。
扉の陰から、物凄い殺気が迫って来ました。

「エルヴィンのケツを追っかけまわしてるのは、てめえか?」

ぞっとするような声でした。私は、金縛りにでもあった様に動けなくなりました。
小物の精一杯の恫喝、大物の冷静な脅迫なら私にもわかります。が、それはそのどちらでもない、判断の尽きかねる種類の声でした。

背筋に冷たいものが走りました。
あっという間に全身を強張らせた文官は蒼くなって逃げ出し、どうやら仲介の労を取ってもらうのは難しそうです。

私は一人で彼を出迎える形になりました。

声の主が顔を覗かせた時、更に驚きました。
小さい。背丈だけではありません。頭も、手も、足も。それでいて、全身から滲み出る重たい気が、一直線に私を貫きます。
これまでに見たことのない……でも確かに、人間です。

「奴をどうするつもりだ」

真正面から睨め付けられて、声が喉の奥に引っ込んだように、出てきません。
手紙は二通だけ。他には漏れていないはずです。どうしてこの男が、私の取材のことを知っているのでしょうか。

「あ、あなたは……」
「誰でもいい。それよりこっちの質問に答えろ。奴をどうするつもりだ」

私は全身に冷たい汗を流しながら、上擦った声で、懸命に、悪意のないことを伝えました。

「政府の狗じゃあねえんだな」
「違います」
「嘘は吐くなよ? その分寿命が縮むぞ。文字通りの意味でな」

小さな兵士が、口の端を僅かに持ち上げました。

「で? 奴の何が分かった」

今度は面白そうな顔です。

「それが、記事に出来そうなことは……まだ何も」
「は?」
「でも、皆さんがスミス氏に惹き付けられる理由は分かったような気がします」
「ほう。何だ。言ってみろ」
「彼は―――導きの灯、なんですね。でも、うっかり触って消してしまうことが怖いから、誰も、永遠に、手が出せない。ただ遠くから見て焦がれるだけだ」
「記者だと聞いたが、似非詩人の間違いだったか」
「済みません、他に言葉が見当たりません」
「はっ、とんだお笑い草だな」

鼻で笑う兵士の顔が急に引き締まりました。

「誰一人届かないからこそ、人類の希望たりえるんだろう。不均衡な愛情を持つ男に、お前はてめえの未来を託せるのか? ほかには? 何が知りたい。奴の好きな体位か? 違うのか。遠慮することねえぞ。何なら実践するか? オイなぜ逃げる」

私は這う這うの体で退散しました。





その数日後のことです。
家を出ようとした私の前に、憲兵が立ち塞がりました。

「何か余計なことに嘴を突っ込もうとしている雛がいると聞いた」

誰の差し金か。考える暇もなく、取材メモは全て取り上げられました。
暴力を振るわれなかっただけ、よかったのかもしれません。
計画は頓挫しました。これでもう、永遠に日の目を見ることはないでしょう。
それでも、私はその翌日、記憶の断片を一冊のノートにまとめ、それを机の奥にしまいました。すると不思議なことに、数日後には、この取材を始めた時の気持ちすら忘れてしまったのです。


ところが、その後、事態が急転しました。
再び壁が破られたのです。

今度こそ争いは内地にまで波及し、状況は目まぐるしく変遷しました。
ついには調査兵団団長の身柄が確保されるに至り、そこで私は、突然ノートの存在を思い出しました。またあの頭痛が起こり、それがきっかけでした。
今度こそ、彼の兵団に何が起きているのか、真実に迫りたい。しかし一度はマークされた身です。何かあった時のために、件のノートは信頼できる友人に送ることにしました。彼もやはり、最近になって酷い頭痛に悩んでいると、つい数日前に話してくれたばかりです。
何とかうまく立ち回って、真相に近付いてはくれないか……
念のため、シーナでの作戦直前に送られてきた手紙も添え、誰か人をやって届けてもらうことにします。この混乱の中でも、無事に届くといいのですが。


それでは、私はこれで。

無事に生き延びられたら、またどこかでお会いしましょう。




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(人間兵器登場直後に届いた手紙。私信のため公開は無用。適当な人物が、時期を見てスミス氏に手交のこと)





エルヴィン。

大分迷ったが、結局書くことにした。読みたくなければすぐに捨ててくれていい。ごく私的なことだ。

この前、お前のことを聞きたいという記者がやって来た。だが俺は素直に応えられなかった。
人に聞かせる様な事は何一つないと思ったからだ。こんな想いは、俺がひとりで、自分の墓まで持って行けば済む。

エルヴィン。思えば長い付き合いになった。
初めて会った時、お前はまだ今の様に背も高くはなく、痩せっぽちで、だが何だか妙に腹の据わった目をした変わった奴だった。
身体の周りに固いバリアを張り巡らせて、世渡りの方法などとっくに学んだ、もう自分には怖いものなどない、というような顔で何にでも耐えていたな。

そばかすのフリッツを覚えているか?
お前を傷め付けていた連中を裏で動かしていたのは奴だ。俺がそれに気が付き、一度話をしようと思っていた矢先、奴は喰われた。

みんな死んだ。

お前を憎む奴、羨む奴、好ましく思わない奴。
お前はそれすら痛みに感じ、部屋で一人、泣いていたろう。俺はいつでも扉の外で、聞くしかなかった。何があっても絶対に俺に縋ろうとしないお前に手を差し伸べたりすれば、お前が嫌がると思ったからだ。

そのうちに、元々力のあったお前は、徐々に中央に近付いて行った。
型通りの野心なんかじゃない、そこにこそお前の生きる意味があることを、俺は、長い時間を掛け、お前の言葉の端々を繋いでようやく理解したよ。
いつでもお前の横に控え、お前が一つずつ階段を上がって行くのを見るのは俺の歓びでもあった。
そうする俺のことを、お前も認めてくれていると思っていた。
だからこそ、だ。俺の望みはただ一つ。たった一日でもいい、お前より長く生きることだったんだ。
お前が力を尽くして生きるのを最後まで見届けてから、俺も後に続きたいと思っていた。

だがそれが変わった。
俺も馬鹿だな。いつの間に俺たちの間には、あんなに大きな溝が出来ていたんだ。
ちっとも気付かなかったよ。

俺にも説明できない作戦をお前が机上で考えていることが分かった時、
その顔を見た時、
俺の中で、何かが終わった。


俺の代わりになったのは誰だ。

誰でもないのか?

お前はもう、一人で大丈夫なのか。
それを選ぶというのか。


エルヴィン。俺は間違っていたのか? 
今になって、そういうのか。やはりお前は残酷だな。
だがどう足掻いても、俺はお前に復讐することすら出来ないんだ。
これを読んだところで、今更何だと鼻で笑うだけかもしれない。
そのまま他の書類の間に挟んでしまうかもしれない。
だがそれでもいい。
全てが終わって満足した後、お前は変わるかもしれないだろう? 

気が付いたら心の中が空っぽで、虚しくて、どうしようもない。
誰でもいい、何でもいい、これを埋めるものがないか。
お前の手が初めて人に向かって伸ばされたとき、俺はそれを受け止められる場所にいたい。



俺の言いたいことはこれで全部だ。

武運を祈る。

人類を救うのはお前だ。
最後まで、思う存分自身を貫け。


俺はいつでもお前の横にいる。








ミケ・ザカリアス






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