<花、降りて、降りて>
















   
山ノ内素十朗   …………………佐国軍一番隊隊長。
白鳥三司      …………………佐国軍一番隊隊士。この世でたった一人、素十郎をゾロと呼ぶ男。
村上作之進    …………………佐国軍一番隊副隊長。イメージ=ブラハム。
銀次、春之助、平太   ……………佐国軍一番隊隊士。















先刻まで高いところで輝いていたはずの陽が雲に隠れているのを見て、
門から一番に飛び出した隊士の顔が途端に翳った。

「やぁっぱり。お前が行くからだ……」

横で、追いついた大柄な仲間が面白そうにそう言い軽く肘鉄を喰らわす。

「降りゃあしないよ!」

剥きになった顔が赤くなった。両手に提げた包みが大きく揺れて音を立て、慌てて後ろから
もう一人が手を伸ばす。

「おいおい、気を付けろよ。天気が保っても肝心の弁当がないんじゃ、お話にならねえぞ」
「ああ。全くだ」
「春之助がからかうからだろ!」

言い合いながら、三人とも足は弾んでいる。


今日は、一番隊揃っての花見の日だった。
昨年までは佐国軍全体で一斉に出かけていたのだが、今年は世情が少々不穏とあって
そうもいかず、各隊が交互に、短い時間でこじんまりと、という取り決めとなった。
くじを引きに行ったのが雨男だと評判の高い、若い銀次だったせいで、隊の中にはもう
ずいぶん前から、「今年は駄目だ」と諦めていた者もあった。
それでも、朝になってみれば太陽は調子よく顔を出し、屯所の台所が早くから拵えてくれた
花見弁当十人前を目にした連中は浮足立った。逸り過ぎて朝稽古で失敗を繰り返し、
呆れた素十朗に道場の端に集められ、叱責される程だった。
 
いつの間にか厚い雲に覆われた空は、それでもぎりぎりのところで踏みとどまっていた。

「おお寒い」
 
吹きつける風が強い。陽炎が漂う程の暖かさだった昨日までとは打って変わって、
陽気が一月ほど遡ったようだった。

「綿入れでも欲しいくらいだな……おっと」
 
副隊長の村上が素十朗の様子を見て身を固くした。

「隊長にこんなものを持たせて。まったく、何やってるんだ、あいつらは」 
 
抱えていた酒瓶がすい、と浚われ懐が心許なくなる。素十朗は胸を掻き抱くように腕を組み、
皆の後に続こうとして、全員の顔が揃っていないことに気が付いた。

「おい。白鳥は」
「ああ。今日はまだ見てないですね」

素直だった村上の声に、ほんの少し、険が混じる。

「大方また、女のところへでも行ってるんでしょう」

女。聞いてちくりと心に針が刺した。それを深い息で振り落として、素十朗は頭をめぐらした。
あの酔狂者のことだ。例えもう別口で何度か行っていようと、隊の花見を外すとは考え難い。
来るに決まっている。
だが、かといって、白鳥一人をここでじっと待っていてやるほどのゆとりもなかった。
素十朗の肩には、いろんなものが乗っている。

曇天の下、ゆっくりと歩いた。
その脇を、一番遅れた平太が、半べそを掻いて走り抜けていった。

「あいつ。茣蓙を忘れやがったのか」
 
村上が苦笑する横で、素十郎は声を上げた。

「転ぶなよ!」
 
順風満帆に推移していたはずの幕府の御政道に、陰りが見えてきたのはここ数年だ。
どの辺りが綻びを見せたのか、官吏とはいえ中央からは程遠い場所にいる素十郎たちには
詳細を知る由もなかった。その頃から、それまではどことなくお飾りめいていた佐国軍にも
俄かに実戦力が求められるようになり、力さえあれば出自を問わず、との改めての触れもあって、
いつの間にか全国各地から怪しい腕自慢が集まる集団となった。
侍になろうとする百姓の子もいる。武士を捨てた者もいる。語る名前はいくつ目か知れず、
時々自分で間違える者までいた。

菓子のような色をした頭髪に、見たこともない布で作られた着流し、片目に覆いを当てた格好で
登場した白鳥三司も、そんな中の一人だった。ひょろりとやってきた姿を見て半ば笑いながら
《迎え》に出た猛者共を、刀の鞘と雪駄を突っ掛けた脚であっという間に熨して、
「一番偉いのは、誰だい?」と少しも乱れぬ若旦那のような声を放ってから、
はてどれくらいになるか。
今はあの頃よりも強く、鼻のすぐ先にきな臭い匂いを感じる。
来年も同じように、こうやって花見が出来るだろうか。
素十郎はあやしく思うとともに、何かに祈りたいような気持ちがした。
 
花は見事だった。
少々見事過ぎるほどだった。
唸りを上げる枝ぶりを、見上げて素十郎は僅かに眉を顰めた。

「隊長ー。こっちですよー」

銀次が遠くで飛び跳ねている。
あいつはまだ十四だ。一人で二人分、弁当を平らげるような育ち盛りだ。
何で覚えたのか抜群に棒術に長けていたが、自分が親ならその天才を呪ったことだろう。
小さく息を吐き、べその収まった平太が腕を振って広げた茣蓙の上に、腰を下ろす。
頭の上の雲が若干薄くなり、気付いた銀次が明るく笑った。そのまま、何はともあれと
重箱の蓋を次々と開けると、そこに隊士たちの頭がわっと集まった。その様子が思いのほか
可笑しくて、素十郎は小さな声を上げて笑った。

珍しい物を見たと言った顔で、村上が近付いてくる。

「どうぞ」

差し出された杯を受けた。注がれた酒の香りがいつもと違うように思い、村上にそう尋ねると、
「外で呑むからじゃないですか」と返って来た。別に、特別に用意された酒ではないらしい。
それがわかってちょっと安心した。

今年が特別でないといい。

村上は、酒に続いて間を開けず、様々な摘みの乗った皿を運んできた。風体はその地位に
ふさわしく威圧的なくせに、全く、女のように細々と気が利き、よく動く男だ。

素十朗がまた笑った。

「随分上機嫌じゃないですか、隊長」
「いや」
 
素十郎は慌てて、緩んだ顔を引き締めた。上機嫌? 決してそんなことはないはずだ。
今はどちらかと言えば非常時なのだ。
あ……。そうか……。
本来なら隊長は、こんなところで皆と一緒に呑気に一杯やっている場合ではなく、
もっと言えば、「余所は知らぬが我が隊は、今年は花見など自粛せよ」と隊士たちを窘めて
然るべき所だったのかもしれない。

迷いもしなかった。
皆の楽しそうな顔を見るに付け、自分もただ嬉しいばかりだった。
 
甘いのだろうか。

「隊長! 羊羹もありますよ〜」
 
え……

「何言ってんだ銀次、隊長がそんなもの召し上がるか!」
「ええっ、そうなの? 俺、せっかく昨日、何時間も掛けて餡子練ったのに……」
「何時間も? ずっと台所に? お前それ、唯のさぼりじゃねえかよ」
 
はははは。
穏やかな空気に、伸ばしかけた手が押し戻される。
 

と、その時。


不意に一陣の疾風が見舞い、皆が驚いて目を庇う間に器のいくつかが中身ごと裏返った。
風が収まった時、そこに男が一人、立っていた。
どこから現れたのか。誰も、近付いてくるのに気が付かなかった。

「よう。お揃いだな」
「三司!」
「三司さん!」
「遅くなりました、と」
 
何だか大荷物だ。大きな風呂敷包みのほかに、肩から何か別の物も下げている。

「いやいや、荒れ模様だねえ」

よっこいしょ、と腰を下ろす傍から、散らばった杯やら皿やらを片付け終わった若いのが
集まっていく。

「どうぞ〜」
「おう、有難よ。後は手酌でやるからいいや。で? 今は誰が何をお披露目中だったんだい」

言われて顔を見合わせて、それもそうかと長閑に箸ばかり運んでいた面子が動きを見せた。
じゃあまず俺が、と唸りだそうとしたのは、さっき屯所で銀次を揶揄した春之助だ。それを見た
三司が、まだ途中だった杯を慌てて飲み干し、さっきの包みを開けた。
中棹が出てきた。細い指が手際良く駒を立て、糸を調節する有様を、言葉も掛けぬまま
逐一見ていたことに気が付いて、素十郎は目を伏せ軽く喉を払った。
もう一度見ると今度は着流しの袖から伸びた白い腕がやけに眩しい。
顔が熱くなった。
 
チン、

「うめ〜に〜も〜」
 
梅かよ! さすが春之助だな、裏切らねえ。
爆笑に続き、喧しいお喋りの渦が沸き起こる。
その底で鳴る、三司の三味の音に耳を傾けた。

弾くのは知っていたが、実際に傍で耳にするのは初めてだ。三司が自分に向ける声と言えば
大概いつもきりきりして、互いの間に固い空気を作る。
だがこの音は。
口を閉じ、腹に抱いたものを手の先から放つこの響きは。
暖かい……そう感じたあと、素十郎は、身体の中心にどくん、と、
重いような熱いような不思議な感覚が生まれるのを覚えた。
春之助も、決してうまいとは言えないが、なかなかどうして艶のある声をしている。全隊一緒の
花見ではまず出番のないところだから、実は今日はそのつもりで張り切っていたのかもしれない。

いつの間にか皆、聞き惚れていた。

「いよう、春之助! 隅に置けねえなあ」
「何かぐっときちまったよ俺ァ」
 
女の気持ちをさらりと歌い終えた春之助の顔の周りに、ほんのりとした色気が漂う。
端で三司が大層満足気な顔をして、中棹を置き、煙管の火を点けた。

辺りの空気が一変していた。
春之助だけではない、皆何だかぽうっとして、夢でも見ているような面持ちだ。

「さぁて、お次は?」
 
ゆるゆると、歌い手が入れ替わる。
目の淵を紅く染める男たちの上で、桜が大きく枝を撓らせた。


歌が続いた後に、なんと副隊長が総隊長の物真似をして見せた。大いに受けた。
また強く、風が吹く。
頭の上でばさばさと枝が鳴り、地面に積もっていた花弁までもが勢いよく舞い上がる。

「あーあー。花が可哀そうだ、こりゃあ」
「今日でもう散っちまうかなあ」
「ふふ。どうかねえ」
 
煙を燻らせ、三司がにやりと笑いながら言った。

「え?」
「聞いた話じゃあ、自分の役目が終わるまでは、雨が降ろうが嵐が吹こうが、
絶対に散らねえんだそうだ、桜は」
「へえ」
「執念だなあ」
「そう聞くと、何だか怖いね」
「怖い?」
「だって一年のうち、ものの十日だろう? その短い間に賭けてるんだぜ。
生半可な覚悟とも思えねえ」
「……なんだか、情の深すぎる女みたいだな」
「おや? 随分とまた生々しい。何かあったのかい、作之進」
 
さっきまで警戒していたはずの村上が、すっかり三司の調子に溶け込んでいる。
素十郎はそれを聞くともなく聞きながら、ゆっくりと呑み続けた。

「小腹が空いた所で、そろそろこいつを頂こうか」

三司が持参した重箱の中身は桜餅だった。少し離れた素十朗のところまで、桜の葉の
いい香りが漂ってくる。
横になり、うとうとし始めていた平太が起き上った。 

「わあ綺麗だなあ。まさか三司さん、自分でこれを?」
「当り前ぇだ。俺が、これを、知り合いの和菓子屋に作らせた!」
「なんだ」
「隊長も、こっちへ来ませんか?」
 
また銀次だ。

「だから隊長はそう言う柔なモンは……」
「あ、そうか」
 
羊羹と同じように、出しかけた手をやんわりとひっこめた素十郎は、突然強い視線を感じて
驚いた。勧めた本人ではない、三司だ。三司がこちらを睨み付けている。いや、
睨み付けている、は言い過ぎか。
だがとにかくその瞳は煌めいていて、何かを期待する色に満ちていた。その熱に当てられ、
思わず目を逸らす。

大きな溜め息が聞こえた。

「―――お好みじゃねえとさ」

溜め息をつきたいのはこっちだ。何だってそんな、おっかねえ眼で見る……。 
束の間、むくれて見せた三司はすぐに取り繕って、何でもなかったような顔で再び楽器を手にした。

「つれ〜ぬ〜」

今度は自分で唄うようだ。

「いよっ! 待ってました!」
「素振ぅり〜とォ、馴染〜みぃがァ過〜ぎ〜て」
 
即席の都々逸に、お調子者が舞を付けた。

「ははは、なんだよそりゃ、泥鰌掬いか?」
「今〜じゃ〜、 わかァら〜ぬ わが心〜〜」
 
いい声だなと思いながら、素十郎は遠くの山並みの方を見続けた。

 

全てを腹に入れ、酒も底を突く頃には雲は晴れていた。
穏やかな春の陽に、みなうつらうつらし始める。

「小一時間ほど休んだら、帰屯しよう」

素十朗がそう言うと、三司は、

「それじゃあ俺は、お先に」

と腰を上げた。

「帰っちゃうんですか」
「ちょいと野暮用がね」
「はあ。それじゃあまた」
「ああ」

持ってきた重箱を、若いのが「代わりに」と手を差し出す。一度はそれを断ったものの、
繰り返し言われて三司は結局、三味線だけを担いで去った。

それを合図に茣蓙の上は静かになった。
起きているのは素十郎だけだ。
酒はない。眠くもない。
 
仕方なく、休んでいる仲間を置いて、素十郎は歩き始めた。
 
いい花見だったな……

こじんまりと皆の顔を見ながら酒を飲むだけでも自分は楽しいが、三司のお陰で
若い連中は楽しそうだった。
そう言えば去年まで、あいつはどこにいたのだろうか。
そんなことを考えながら、自然と高い方へ向いた足に素直に従っていると、やがて
ひと際立派な樹が目に入って来た。それを目指してなお歩く。
近付いて初めて、根元に人が横たわっていることに気付いた。
 
驚いた。

帰ったはずの三司だ。どこに隠していたのか、ご丁寧に一人用の茣蓙まで敷いている。
つい立ち止まる。
なぜ帰ると言ったのか。なぜ帰っていないのか。なぜそんなに気紛れなのか。
そのまま歩き去ればいいのに足が動かなかった。

やがて着流しの背中が言った。

「不思議だねえ」
「えっ」
「どうみても、こいつが一番の樹だ」
 
満開の桜が応えるように上で枝を鳴らす。確かに、幹の太さや枝ぶり、花の付き、
咲き具合と、どれを取っても、先刻まで素十郎たちが眺めていた並木一本一本の
比ではない。皆が一番に寄って来てもよさそうだった。

「なのに、誰ぁれもいねえ」

その通りだ。早くに人のやって来た気配もなかった。

「偶々か? それとも―――」
「……」
「ひとでも死んだか」
 
途端にぞっとした。見えないはずの戦場を見たように、寒気が身体を走る。
頭が締め付けられて、胸が苦しくなった。
花の妖気に当てられでもしたのだろうか。自分も。三司も。
そう思った時、向こうを向いていた身体がくるりと反転し、素十郎は息を呑んだ。

「もしかしたら」
 
素早い動きを裏切る涼しい顔で、三司は喋り続けた。

「あ、ああ」
「こうやって立ってるだけに見えるこいつにも、何か言いてぇことがあるんじゃねえかと、こうして俺が」
「……」
「聞いてやってる、てぇ次第よ」
「……そうか」
「どうだい?」
「え?」
「ここで隊長さんもご一緒に」

またさっきの鋭い眼を見せて、三司が身体の前をぽんぽん叩いた。
いつ乱したのか、片方の衿が大きく開いていて、真っ白い首の付け根に紅い痣が見えた。
それはどうしたと、聞けるわけもなく喉が鳴る。弾みでまた、眼を伏せる格好になった。
じっと見ていた熱が白けたように収まったのがわかった。

「ハハ……。嫌われたもんだ」
 
その時、思い出したようにまた風がそよぎ、あっという間に激しい辻風となった。
 

ゴオオ……
 

何万もの花弁が、空を流れる河となって視界を遮る。
しばらく、ほかのものは何も見えない程だった。
花が全て通り過ぎた時、三司は素十郎のすぐ目の前に立っていた。


「!」
 

見えぬはずの目を覆った布のすぐ下に、一片の花弁が張り付いている。
軽く払ってやればすっきりする。隔たりはほんの僅かだ。
思わず手が伸びた。
湿っているのか、花弁は触れただけでは取れなかった。
もう少し、と力を入れた先に三司の体温を感じる。
 
指が震えるのがわかった。
まずいな、と思った瞬間、三司に手首を掴まれていた。


「……ゾロ」


真剣な瞳が、今度はごく間近にあった。声は、唄っているときよりも艶があった。
 
そのとき、計ったような間合いでまた風が起きた。
 

いつの間にか手首が軽くなり、指の先の温もりなくなり、
三司は消えていた。
ただ一枚、指先に移って来た花弁が、弱くなった風に震えるばかりだった。


                 



   








『渦と数』番外編。





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