<半夏生>








足元を気にしながら、ひとり山ノ内素十朗は帰り道を急いでいた。

掘割を流れる水がうるさい。
終日降り続き、評定の声さえ遮るほどの雨が、つい今しがた上がったばかりだった。

佐国軍一から九番組までの隊長と総隊長が、国の役人と差しで向かい合い密議を凝らす。
これまではおよそ月に一度だった集まりが、このところの周囲のざわつきを受けて、近頃では
ごく頻回になっていた。
何度顔を突き合わせようと妙案が急に湧いて出るわけでもなかったが、こうして密に集まる
ことで、案外国は、佐国軍の肚を探ろうとしているのかもしれない。


蛙の声がひときわ高くなる。


(また降って来る……)


素十朗はほとんど小走りになって、屯所を目指した。


最後の角を曲がり切る直前、門の脇に気配を感じた。
慌てて、煩く鳴っていた足を緩める。だが遅かった。
向こうが先に気付いて、顔を上げた。

キナ臭い話をしてきたばかりだ、あっという間に全身が強張る―――



「よう。早ぇじゃねえか」


声と同時にその主が知れ、一気に力が抜けた。

提灯を掲げてみるまでもない。女の帯か、上等の菓子のような色をした髪が
白い貌と共に闇に浮かび上がっている。


「脅かすな……」

素十朗は、相手に聞こえぬほどの小さな声で呟いた。胸が激しく高鳴っている。
ゆっくりと、殊更ゆっくりと歩を進め、動揺を気取られないように近づいた。

それにしても。こんなところで何をしているのか。
隊士ならとっくに、自宅なり屯所なりの中に収まっている時間だ。


数歩手前で立ち止まる。
視線を落とすと、手に大きな徳利を持っているのが目に入った。

「飲んでいるのか」

問われた三司が面白そうな顔でこちらを見た。

「……ああそうとも。見ろよ、い〜い朧月じゃねえか?」

いつもと変わらぬ柔らかな口ぶりだ。だが屯所の門前でひとり酒を友にするなど、
粋を地でいく三司のすることとも思えない。怪しく思い、月ではなく黒い着流しに包まれた
佇まいの方を慎重に窺う。



「珍しく止んだんだ」

三司が月を見上げたまま呟いた。

「え?」
「雨さ」

つられて思わず一緒に空を仰ぐ。
確かに……雨はやんでいる。この時期、降っている時間の方が長いのは自然の摂理だが、
それが上がった僅かの時間に、わざわざ酒を持ち出すほどに嬉しいのだろうか、この男は。


三司が徳利をぐいっと煽った。
喉が鳴り、白く光って、素十朗は思わず眼を逸らし、下を向いた。

「大概、雨で有耶無耶になっちまう。だが今日は」

上を向いた三司の声が、僅かに固くなった。

「……わかるかも知れねえ」

もう十分酔っているのだろう。
自分には見えぬ何かを睨み、聞こえぬ声を聞いている。

軽く窘めるだけはして、そのままそっと、脇を通り過ぎようと思えばできた。
だがそのとき、僅かな風が三司の髪を揺らし、それが左目を覆う黒い蓋の上で二度三度
舞ったのに目を止め、動き出す機を逸した素十朗はつい、三司に声を掛けた。


「何を……待ってる」

三司がゆっくりと顔を向けた。

「待ってる?」

こちらを見たままくすりと笑う、だがやはりその目は僅かに虚ろだ。

「別に、そういうわけじゃねえ。あ、いや……そうなのかねえ」

何なんだ。

「一度きっちり、量ってやろうかとさ」
「え?」
「天が降らせる、毒の力とやらを」



不意に、小料理屋の主人の言葉を思い出した。


   『あいにく今日は、市が休みで』


それに答えた男がいた。


   『そういや今日は、半夏生か』


さらに続けた者は、北の、百姓の家の次男坊だった。


   『俺ら外に出ちゃいけねえって、子供の時分には言われてたもんだが』





いつの間にか、蛙の声が止んでいた。


「どんな魔なのか、今日こそしかと」


毒を? 量る?

素十朗にはわかりかねた。闇と同化した眼帯が、白い貌の上、また髪に嬲られ、
目に付いた。
ひょっとして、それと何か関わりが―――




『大切なものを救うため、左目を差し出した。』

愛想のいい割には取り付く島のない男の、身の周りに漂う僅かな風説だった。
だが、それほどの労を傾けて尚、真っ当な藩に仕官するでもなく、
風来坊のなりで、こうして佐国軍にまで流れてきている。
粋人を気取って達者に暮らしてはいるが、

逸れ者であることに、変わりはなかった。


―――それは、
三司の何を意味しているのか。


不運なのか、不遇なのか。
それとも―――、

時折少しずつ顔を出す、
狂気をその身に宿すことの、証なのか。


問うてみたいと思った。
辺りには他に誰もいない。ふたりきりだ。
答えがあるか、半信半疑だったが、

目の前の男の内を、ほんの少し、覗いてみたいと思った。



「量って何を確かめる」

答えは早かった。

「おれがここに」

拳が胸を叩く。

「飼ってるモンとそいつが、どう違うのか。はたまた同じなのか」
「……」








朧の月が光を増す。
その遥か下で、目元に朱を刷いた銀狐が尻尾を膨らませ、
見えない刀を握っているように見えた。

じわじわと漏れ出した薄い殺気が三司の身体を包み、
その気配ごと、淡い光を放つのではないかと思われた。

堕ちる……踏み外す……変化する……

美味い言葉が見つからない。
だが不意に湧き起こった虞に、背中がぞくぞくした。

止めるんだ。
はやく。

おれが、手を伸ばせば、止められるのか?
自らに課した禁を犯し、その身体のすぐ近くにまで寄って、肩を掴み、揺り動かせば、
あるいは目を覚ますかもしれない。

簡単だった。
二歩、いや三歩、足を前に出せばいい。


腰に力を入れた。

―――と、

つと怪しい気配が弱くなり、夢から覚めたような顔で、三司が素十朗を見た。
いつもの、自分をからかう時によく見せる、子供じみた平和な顔だ。
素十朗は、途中で詰まったひと息の残りをゆっくりと吐いた。

素十朗の顔をつくづく眺めた後、薄く笑いながら三司が言った。

「さっぱりしてやがる」
「え?」
「お前ぇは全く、これっぽっちも縁がなさそうだなあ」
「縁?」
「そんなどろどろしたモンとは、さ」

湿った風が舞う。
提灯の火を気にした僅かの間に、三司に半身を獲られていた。
別にどこを触られているわけでもない。だが左半分は、凍ったように指一本動かせない。



「なんならおれが、作ってやろうか?」



耳元で、なにものかが囁く。



「地団太踏んでも忘れられねえような、禍々しい思い出を、ひとつ」




少しも酔ってなどいない。
夜気を吸い込んだ着物の下から、身体を更に凍えさせるような寒気が伝わってくる。
思わず体が震えた。

ふと、三司が身を離し、ふわと暖かな気が通った。

「ははははは。うそうそ。どうやらおれの方の毒が回り過ぎた。危うく、堅気な隊長さんまで
穢しまうとこだったぜ。あぶねえあぶねえ。いやほんとに、悪かった」

艶のある笑い声を足元が軽やかに引き継ぐ。下駄だ。珍しい。

からん。ころん。

歩きながら、三司が言った。

「さあて。厄払いに蛸でも食ってくるか」
「待て!」

三司が足を止め、振り返る。
青い瞳が期待に光ったのが、夜目にも分かった。

「……門限はとうに過ぎてるぞ」

聞いた三司の顔からす、と色が落ちた。

「おれが嫁入り前の娘に見えるか?」


じゃあな、と片手を上げて、異形の男は闇に紛れていった。
灯りも持たないままだった。


胸の高鳴りが収まらない。
素十朗は、刹那、三司を追おうとしたが、口実がないのに気が付いた。

提灯ひとつでは―――、余りにも気恥かしい。




ぽつ、ぽつと再び雨が落ちてくる。

そういえば蛇の目も持っていかなかった……


気の届いたのは、せいぜいそこまでだった。

そもそもあの男、ここで誰かを待っていたのではなかろうか……
そんなことを思いやるゆとりは、残念ながら、この堅物の隊長には望むべくもなかった。


















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