<乾杯!>




「もう帰るの?」

いつでも日向の様に温かい、マリーの声に翳が差した。

「ああ。ご馳走様」

目を落とした女の、カウンターの上に乗った小さな手を、咄嗟に覆った。
女は驚いて顔を上げた。気持ちが見透かされたことがわかって怯えた瞳は、離れていく手の方には向かず、女は慌てて作った笑顔で二人を等しく見送った。

閉じた扉の内側で、女の情念が渦を巻いたのがわかった。何物をも寄せ付けない、恐ろしい深淵だ。
ナイルは、横で気持ちの良さそうな顔をして、まだ喋り続ける男の顔を、怨嗟の念を込めて睨み付けた。



女の作り出す恐ろしい淵の周りに柵を立て、余計な煩わしさから遠ざけてやりたい。
そう思うようになったのはいつ頃からだろう。彼女が自分の内に燃える劫火に耐えている間は、俺が手を広げて誰も近寄れないようにする。優しい言葉を掛けるのではない。すぐ横で、安っぽい同情の目を向けるのでもない。慰めもしない。涙も拭かない。
ただ邪魔をしない。誰にも、邪魔をさせない。それが俺の務めだ。


いよいよ所属兵団を決める時になって、ナイルは告げた。


「エルヴィン。俺は憲兵団に行く」
「何故!?」
「壁の中に、護りたいものが出来たからだ」


あれほど、一緒に真実に近付こうと約束したではないか。どちらかが先に斃れたら、遺された者が後を引き継ぐのだと、固く誓ったではないか。
エルヴィンが久々に見せる怒気の中に、熱ではなく、骨の髄にまで届くような冷たさを感じ、ナイルは身を震わせた。それでも、決意を変えることはなかった。


その夜。初めて一人でその場所に出掛けて、女に告げた。
マリー。俺は残るよ。君の気持ちは知っている。奴を好きな君を、俺はここで見守ることにしよう。いつまでもだ。ここにいれば、これまで通り客でいられるだろう。

そんな。やめて。私のために。

女は正直に、はらはらと涙を落した。

何故自分の気持ちを伝えないんだ。聞くと女は、あの人を止めたくないの。と、流れる涙を拭いもせずに答えた。

「愛しているんだな」
「……どうだか」



卒業の日がやってきた。
他の皆が去った後、もう一度三人で乾杯した。

「では改めて、卒業おめでとう!」

マリーは、いつ気持ちの舵を切ったのか、もう、慟哭とは無縁な顔をしていた。

「必ず真実に迫って見せるぞ!」

既にかなりの酒が入り、いい調子のエルヴィンが大きな声を上げた。

「人類の希望に!」
「鈍感なバカに!」
「残酷なロマンチストに!」

三様に言って杯を合わせる。

「なんだ?それは」

ああ。なんてハンサムな男なのだろう。
金髪が少しだけ乱れて、疑いを拒否する双眸はどこまでも蒼く澄み、白皙は匂わんばかりだ。そして、形のいい唇から生まれる蜂蜜のような声。

「それが分からないから鈍感なんだ」
「残酷なのよ」

マリーと気が合って、ナイルは嬉しかった。

「俺が?」

邪気なく頬が染まる。こんなに憎らしい男を他に知らなかった。
早く、壁の外にでもどこにでも行っちまえ。だが……お前を失いたくないのは、俺だって同じなんだ……。

「で?どんな巨人がいると思うの? 未来の団長さん」

マリーが上手く、あとで本当に悔やむほど巧みに、話の矛先を変えた。

「ああ!それが、また一つ思いついたことがあるんだ。いいかい……」

エルヴィンが嬉々として話し出す。

ナイルはマリーに目配せしようとして止めた。
今夜が最後かもしれない。二人の邪魔をしてはいけない。
そこで急に閃いてぞっとした。
もし二人に、思い出が出来たらどうだ。マリーがそのつもりだとしたらどうだ。
その後で……エルヴィンが意志を変えない保証がどこにある?


そうしたら。
俺はここにはいられない。その時は代わって調査兵団に行くしかない。


これ一杯だけ。飲んだら先に出よう。霧の様に消えよう。
決めて味わう。


華々しく乾杯したはずの酒は苦く、
何も見えず、何も聞こえなくなった。




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