< 顔 >






イヤな感じで心臓がとくとく鳴った。
寝りゃア治るだろうと朝から昼寝を決め込んだのに、
起きたらもっと酷くなってた。

何だこれは。

ひょっとして具合が?なわけねえか。
敵の気配もねえ海のど真ん中でこの胸騒ぎ。
何かが……何かが何かが何かが、崩れちまったようで全く頼りねえ。
掻き毟れば肉が落ちそうだ……


畜生。怖ぇ。



―――コックはどこだ!



バネに弾かれ飛び起きた。

真っ先に飛び込んだキッチンでは、春と冬の空気が穏やかに混ざり合っているだけだ。
人の気配が消えてからもうかなりの時間が経っていることがわかる。

ドアに張り付いたままの身体を反転させ、甲板の蓋に飛びつく。
開口と同時に立ち上る、野郎共のもやもやした匂い。そこにどうしたことか、
今日は新しい木の香りが確かに割り込んで鼻を突いた。メリーを貰いたての頃の、
あれだ。久しぶりに我が家に帰ったかのように、なんだかよそよそしい。

降りるまでもない。いない。

トイレ、風呂、格納庫。片っ端から覗き込んだが全てカラだった。
時々他のクルーはいろんな色の縞になって「あぁあああ」とか「おおおおぅ」とかの
音を引き摺り体の横を流れて行ったが、肝心のコックだけがどこを探してみてもいない。

そうこうするうちにも、突然胸に開いた穴にはどんどんどんどん、容赦なく風が吹き込んだ。
懸命に抑える。が、抑え切れねえ。俺がこんなに奮闘してるってのにてめえは一体。



いない。まるで初めから、そんな人間などいなかったとでもいうように、いない。





消えやがった……





メリーの麓から自分の縄張りまで、ダッシュすれば30秒も掛からない狭い空間なのに。
そのどこにも、いない。



まさか……

手摺に身を預け水を覗きこんだ。


さては海狂いが高じてついに魚にでもなりやがったか?
本気でそう思い、順調に航海る船が置いていく波間に、必死に眼を凝らす。

と、威勢のいいのが一匹、銀の身体にちらりと光を反射させた。
気のせいか、その一部が黄色く映る。

あれか!?
あれがコックか?


「おいコラっ!」


大声で呼びかけた。
波がサクサク砕けるのみ。



少し離れた場所で、船長が一瞬気を止めこちらを見た。
だがすぐにげらげら笑って、楽しい遊びに戻っていった。



追わなければ。
あの野郎、魚なんぞになりやがって、一体どこへ行くつもりだ。

今すぐ水へ――

だがそこは獣の性なのか、場所を移して飛び込もうと決め、己の陣地に一旦退く。



するとそこにサンジがいた。
ぴんと張ったロープ相手に、一仕事始めようとしているところだった。

どこに、隠れてやがった。俺の目を掠めて……
一体どこをどう摺り抜けりゃあこうなるんだよ。


「――てめえっ!」


ん? 声に出さず、シャツ姿の男が首を傾げる。
作業の性質上、さすがにその口に、煙草はなしだ。

持て余した心臓が、走ったせいでさらに上塗りでばくばくして、
ゾロは思わず身を屈め脚に両手をついた。


サンジが、手に収まる大きさの布をパンパンと叩く。
荒い息のまま頑張って顔を上げると、それを広げて端と端をきちんと合わせ、
ロープに掛けるところが見えた。
口から、小さく、歌声まで。

力を振り絞って声を出す。

「ちょっと……顔貸せ」
「喧嘩? 5分待てよ」
「いや。やっぱ頭貸せ」
「何よ作戦会議? だが答えは同じだ。5分待て」

そういうと今度は大きな布をあらかじめ広げ、縄に掛けた後で叩き始める。


「サンジっ!!」


殆ど悲鳴だ。

俺にも待てる時と待てねえ時がある。
そして今は、断然待てねえ時なんだよっ!!


緊急事態だ。そこでサンジにもようやくわかったらしい。
それでもクロスの隅をきちんとピンで挟んでから、足をこちらへ向けた。




「どーしたよ」

差し出された明るい色の頭を肩口に収め、固く抱く。
利き手で頭蓋骨の形と硬さを確かめてから、身を離して真正面から顔を見た。
金糸を撫で、捲り、輪郭を辿り親指で膚を滑る。


「息が上がってるじゃねえか」
「ああ。胸に穴ァ開いた」

蒼い眼が少〜し大きくなった。


「夢?」
「違う」
「病気?」
「……違う。多分」


どーれ。言ってサンジは今度は自分から、ゾロの胸に耳を当てた。


「普通に動いてんぜ?」
「……もっかい」
「ん?」
「もっかい、顔」

髪に隠れた方も出して、左と右で対称に、サンジの顔をただ辿る。
眉の通りに指を回し、瞼の上の、窪みをなぞり。
頬を挟み、頬骨の角度を確かめる。


「キスすんなよ?」
「……」



サンジは大人しく、ただされるがままに、なっていた。

両手での検分が終わると、ゾロは掌をサンジの丸い後頭部に当て、
ほうっ、と息を吐いた。それからもう一度、まるで自分の持ち物のように、黄色い
頭を固く抱きしめた。


「もげそう」
「……」
「持ってくんじゃねえぞ、俺の頭」

込める力が一層強くなった。痛かったが、サンジは我慢した。


「俺の頭持って立つてめえか。ぞっとしねえ。いやでも待て? あー、案外絵になるかも!
たとえ頭部だけだろうと目エ瞑ってようと、俺は光るからな」
「……」
「けど逆は……何か……料理中の名コック、みたいにならねえ? てめえの頭だと」

ぷぷっ。そう言ってサンジは笑った。

ゾロの腕が少し柔らかくなる。

「治まったか」
「……わかんねえ」

抜け出して、逆に抱き締めたかったが、サンジは我慢した。

「てめえが、いねえと」
「おう……いるぜ?」
「もっかい、顔」

目の見えなくなる男が最後に焼き付けるように、
ゾロは丁寧に、粘土を扱う手付きでサンジを触りながら、気の済むまで眺め続けた。




突然ゾロが力を失い、日差しで温まった甲板の上に崩れ落ちた。
残りの洗濯物を全て片付けて、サンジはその横に腰を下ろした。

ゆっくりと、煙草に火を点ける。
横から伸びてきた指がそっと動いたので、
サンジは煙草を渡し、ゾロが煙と共に深く呼吸するのを見守った。
その一息きりで、ゾロはサンジに紙巻を戻した。


「わかんねえか……」
「ああ」
「落ちつかねえの?」
「……物凄く怖ぇ」
「そりゃア困ったなあ」


ゾロが、果てしない道の途中で自分を見失うのは、これが初めてではない。
サンジにはその気持ちがわかったし、それを情けないとも、だらしねえとも思わなかったし、
別にがっかりもしなかったし、ましてや励ましたりするような真似もしなかった。

だからゾロも、恥じなかった。
正直に、自分を晒した。


「てめえは。ねえのかよ、そういうの」

おや? 珍しい。そんなことを聞かれるのは初めてだ。

「俺? 俺は……」
「一切迷わねえか」
「そうあっさり言い切る自信もねえがー」
「迷ってるほど暇じゃねえ、か」
「うーん。俺は基本、誰とも競ってねえし」
「……」
「っつーか、扱ってる時間が細切れだし」
「その繰り返しに呆然とすることは」
「――ねえな」

はーっ。

ゾロが大きな溜め息をついた。


「てめえは強ぇな。呆れるほどだ」
「そうか? いや正面切って言われると……照れる」

言ってサンジは頭を掻いた。


「心配すんな。おめえは大丈夫だよ」
「わかってる」
「え? わかってんの? なんだよ、言って損した」
「んなこたねえ。力になった」
「……」
「おめえがそこにいて、何か言う。それが俺に取っちゃあ大事なことだ」

はーっ。

今度はサンジが呆れたように息を吐いた。

「てめえは」
「ああ」
「ホントに俺のことが大好きだな」
「へっ」



ここでの仕事は全部済んだか、とゾロはサンジに尋ねた。


「これから暫く、本身を使う」


危ないから誰も近寄らせんな。
船長のようなことを言って、漸くサンジを放す。


決して完全に落ち着いたわけではない。声はまだ少し震えている。
だが、もうさっきの様には動揺していないことがわかる。

剣を振れば更に、強引に自分をどこかに位置付けるだろう。
無理の上に無理を重ねて生きる男だ。

稽古でも観察すれば、その無理やりな変容の様でも見て取ることが出来るのだろうか。
そうであるなら一度じっくり見守ってみたい、
そんな風に思うのは愛故なのかも知れないなと思った。


見ねえけど?

なんせ俺の時間は細切れだから―――


次の食事とその次の食事、せいぜい喰ってる時に、見ることにするさ。



その一つ一つの細切れを、
強力なノリみてえな力でくっつけてんのは……てめえだがな。


急に思ってサンジは鯉口を切る寸前のゾロに近寄り、
顎を掬って深いキスをした。


剣士は刀を元に戻すとそれに応え、兆しかかった腰を押し付けながら

「どいてろ。危ねえから」

と、低く言い放った。


















♪あーあー、はってしっないー(クリスタルキング)
でっかく構えてる男は案外小心な部分を持ってると思いますよ。
「世界一の大剣豪になる!」常に言い聞かせてないと自分の足元がグラつく……的な(笑)。
(船長?あれはピーターパンなので例外です)
サンちゃん、いつもゾロのことを有難う!


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