車が止まり、わざとらしくゆったりと開いた扉の隙間から絞り出るように抜け出し、
ステップから地面へ、足の付いた瞬間に走り出していた。
この時間ではもう、相手が待ち合わせた場所にいるとは思えない。それよりも、
自分自身が間に合うかどうか、今はそっちの方が心配だ。

閉まりかけたガラスに突っ込むと、中は温室のように暖かかった。広い空間に閉じ
込められた、ふわーっとした喧騒の波に飲み込まれて、サンジは一瞬眩暈を覚える。
歩き回っているのは、興奮と、緊張と、微かな喜びを湛えた顔ばかりで、その特殊な
空気のせいなのか、これだけたくさんの人が集まっているというのに、ここには「余計な」
悪意が生まれる隙がない。

だが今は、そんなムードをゆっくりと味わっている余裕はなかった。
ただひたすらに、目的地を目指す。ただひたすらに。


自分が悪いわけではない。
途中の道が混んでいたせいだ。
それを予想しなかったのが甘い、といわれればそれまでだが、乗っているのはリムジンバスだ。
いくらなんでもそれほど遅れるということはないだろう。飛行機に間に合わなかったらどう責
任を取るつもりか。いざとなったら高速を下りて脇道に入るとか、何かきっと非常時対策が
あるに違いない、そう高を括っていた。
しかしいつまでたっても、車は通常のルートをとろとろと進むばかりで、イライラしてきたサンジは
片足をパタパタ鳴らしながら、(そうだ……今に特別車線が出てくんだよ、きっと。みんなが
この車に道を譲って、もしかしたらそうだな、パトカー辺りが先導して路肩を走るのかもな。
ああ、絶対ぇそうに違いねえ)と、自分を宥めに掛かった。

「事故だねえ」
運転手がのんびりと呟く。
サンジの片眉がぴくりと上がった。
てンめえ……いざとなったら飛行機の真下まで走ってもらうからな!
心の中の自画像の頭上から、思い切り湯気を吹き上げる。
バスが漸く佐倉に差し掛かったとき、前の席の二人連れもさすがに我慢とか心配とかの
限度を超えたのか、
「どうしよう……間に合わないかも」
「バスを信じすぎたかな」
と、口に出し始めて、それを聞いたサンジは思わず立ち上がった。
俺に運転させろ!
そう叫ぼうとしたとき急に車の速度が上がり、サンジはバランスを失って、慌てて傍の手摺に
捉まった。
「お客さん、ちゃんと座っててくださいね」
運転手が振り返り、ニヤッと笑った。
「ちょっと飛ばしますから」
  


下り際に「有難うございました!」と大声で叫んだ晴れ晴れとした笑顔が憎たらしい。
大急ぎの頭にさえも、しっかりと残る強い印象。
ちっ。たいしたキャラだぜ、ったく。
変なところに、今時珍しいプロ根性を見た気がした。
だが、とにかく、ゆっくり感心している時間はない。
出発ロビー、三階。
目的地は遥か彼方に思えた。
直線距離にして、一丁目と三丁目ぐらいには離れているだろう。
いや。むしろ天国というべきか? 片手を翳し、見上げて思わずくらっとする。
階段を二段飛ばしに駆け上がりながらサンジは思った。
なんで、こんなに、遠いん、だっ!入ったらすぐ、乗れるように、しとけっ、てんだ、
アホっ! チーン♪
心の中でつく悪態をメトロノーム代わりにして走る。
幸い荷物は大きめのショルダーだけで、フットワークは軽い。
だが駆け上がりきってふと、「次の階への」階段が、どこにも見当たらないことに気付いた。
なんで! 
途端にパニックに陥る。
間に合わねえよっ!
目を一杯に見開き、格好付ける余裕もなく、きょろきょろと真っ正直に辺りを見回すと、まだ
日本国内であるはずのそこはどこか浮わついた感じで、日本独特の「勤勉さ」とか「親切心」
とか、そういうものの気配が皆無だった。その代わりに、妙な気だるさ、甘いような成熟感が
漂っている。ごく普通のイタリアンレストランが、なんだか怪しくそっけなく見えた。売店に座る
年配のレディなど、既にどこぞのアンニュイな外国マダムの風格を漂わせていて、とてもではな
いが、道など聞ける雰囲気ではない。
途方に呉れ更に見渡したが、案内板すらない。
だが肩で息をしたまま振り返った途端、思わず顎が外れそうになった。

目の下に広がるのは―――、整然と並んだ、まさにあれこそが、航空会社のカウンター……。

あ!?

そこはたった今、ガラス扉を蹴り破る勢いで飛び込んできた、ばっちりその場所にほかならない
ではないか。
なんだ、あれは?
あれがそうか?
今のが「三階」だったのか!?
………………。
詐欺か! 詐欺なのか! ふつーの? 地上の道路からまっすぐ進んできたらそこがいつのま
にか三階になってるなんて、一体どこの捻ねくれモンの理屈だそりゃ、え!? 一階でいーじゃ
ねえか、「出発ロビー:一階」で! その下は地下、それでいーじゃねえか、なんでいけねえんだ、
つか、あくまでも三階だと言い張るんなら何で足元にでっかく《3》て描いとかねえ! 一体客を
何だと思ってんだこの店は! 寡占経営の弊害か!
俺に経営させろ!(この空港ビルを)
内なる声をまたもやぐっと収めて、サンジはくるりと向きを変えると、真っ赤になりながら今度は
階段を三段飛ばしに駆け下りて、着地と同時に直角に旋回した。
綺麗なお姉さんが目の横をビュンビュン通り過ぎていく。
だが惜しいことに、やはり、ゆっくりとその麗しい制服姿に感心している暇も、ないのだった。
走りに走って、ようやく目的のカウンターに近付く。
そこでふと、横の方を振り返ってよかった。
そこにありえないものを見た。
「ゾロ!?」
コートを着た背を丸め、頭を垂れ、ぽつんとひとり、小さくなって座っている。
「てめえまだ、チェックインしてねえのかよ!」
サンジの声を聞き、ぱっと上がった頭が、直ぐにその姿も捉えて、あからさまにほっとした表情を
作った。
「よかった……来ねえのかと思った」
「アホ! もう三十分もねえじゃねえか! 何で先行ってねえんだ!」
遅れた詫びも言い訳もなにもない。
「お前が来ねえと意味ねえから」
「は?」
さっきの運転手と同じだった。
慌ててるときは慌ててると顔に出せ!!!
とっととしろ! アホ!
引っ立てるようにゾロを追いやり、ふと、足元のスーツケースに気が付き、それをチェックイン
カウンターまで蹴り飛ばす。
なんなんだよ、この大荷物は!
捨てろ!
紛失しろ!
いっそ落っこっちまえ、大西洋辺りに!
サンジの脳内文句は最高潮に達した。
大体……
てめえだろーが、この旅行を言い出したのはっ!






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