ここへ来てメリーにも去られたということは、いよいよ破滅の日までのカウントダウンが
始まったのか。サンジは、凭れていたガラスから顔を上げると踵を返した。
飲んでるうちに死ぬのもいい。
そう思って部屋の隅のバーカウンターまで進み、ありったけの酒を引っ張り出したが、
まともに入っている瓶は僅かしか残っていない。それが一層サンジを苛立たせた。

『飯だけは作ってやる』

ハ? 何をまあ偉そうに。
んなモン食ってたまるか。
何があろうと一口だって手ぇつけねえからな。
……だが。『俺の食いモンを粗末にしたら、俺がてめえを殺す』、そうも言っていたなと思い出した。
それだけは絶対に嫌だった。
あんな奴に負けるのだけは絶対に。
ぐちゃぐちゃに散らかった中から上着を探し出し、タバコを銜える。

「メリー、風呂っ!」

口の端から思い切って振り絞った大声が、自分の耳の中で木霊した。

ク…ソ…ぅ。

奥歯を噛み締め下を向いたまま、、足を鳴らして浴槽を目指す。

勢いよく飛び出した熱湯を避けきれずに腕を火傷し、驚いた拍子に湯船に吸殻が落ちて、
それを拾おうと身を屈めると今度は王冠が派手に転がった。

「ク……っ!!」

悪態を自分で聞くのももう沢山だ。もう一度歯を鳴らし深呼吸をして始めからやり直し、
それでも最後にはどうにかいい加減の温度の湯を捻り出すことに成功したとき、サンジは
腕捲りをし、額には汗を浮かべていた。

「久しぶりに、働いちまった……」

声に出して、そう言っていた。

風呂から上がった体は濡れている。
濡れた体のまま石の床の上を歩くのは気持ちが悪く、毛足の長い絨毯の上を歩くのは
もっと気持ちが悪く、頭に来たからといってその上でごろごろ転がって水気を取ったとしても、
後でその濡れたところを踏むのは更に不愉快である。
サンジが多くのことをいっぺんに学習して、漸くのことで探り当てたタオルで体を拭き、
浴室を出ると、体から立ち上る湯気の向こう側にいい匂いが漂っているのに気が付いた。
抗いようもない。つられて大きな音で腹が鳴り、ふらふらとそちらの方に足が向くのを
止められなかった。

「まあちょっと、見るだけなら見たっていいよな」

誰に言い訳しているのかわからない。

扉の外に、銀のワゴンが置いてあった。流石に手製ではないが、皿の上にもやはり、ご丁寧に
カバーが掛けられている。それを見たら、矢鱈に胸が詰まったり腹が立ったりした。
どうにも見過ごせず、結局手が伸びる。ずっしりとした重みを感じながら慎重に開けると、
その途端に勢いよく熱が逃げていった。
まさか頃合を見計らって運んできたのだろうか。ちらと思い掛けて、うっかりあの男とそんな
気遣いを結び付けようとした不覚を後悔した。

「ま、持ってきちまったモンはしょうがねえけどよ」

わざとらしく吐き捨ててみるが腕の方はかなりいそいそとワゴンを押し、途中で酒瓶を一本取って
長椅子に陣取ると、さてさて、と手までが擦り合わされた。
だが、丁寧に磨かれた銀のフォークを取ったところでまたさっきのあの憎たらしい顔がありありと
思い浮かび、せっかくの、そこそこに浮上していた気分が台無しになった。思い立って手の中の
それを宙に投げ上げ握り直して、黄色いソースの掛かった魚の真ん中に突き立てる。

「死ねよ、クソジジイ」

柔らかい身を通り越した金属は、皿の上で滑って嫌な音を立てたが、それが消えると、
再び静寂がどっしりと辺りを支配した。
自分から出る声、周りの空気、色、温度。全てが虚しい。ぞっとして小さくなろうとするサンジの
体を、口の中の料理だけが温かく受け入れていた。

「畜生、旨ぇ」

胸がずきずきする。
酒だけでは到底間に合わなかった。荒々しく立ち上がり、長いパイプの先に特別に調合した
《特効薬》を入れ火を点ける。細く煙を吐き出しながら、明日も来るから! と言って去って
いった騒がしい女たちの約束が嘘ではないといい、そう願った。



もう一度目がさめたとき、辺りは既に暗かった。
ああ疲れた。早く女の子たちが来ないかな。
だが、残り少ない酒に思い当たった瞬間、それを補充するのに足を向けなければならない先に
考えが至って鼻に皺が寄る。

だがちょっと待て?
そこで素晴らしいことに気が付いた。

ああ! そうか! 

メリーが消えたんなら話は単純だった。
もう二度と、ここに戻って来なければいい。
今度こそ、戻ってこなくても、もう誰もなんとも言わないのだ!
俺の欲しいものはここには何一つ残っていない。

明日。
そうだ。明日になったらここを出て行こう。
そうすればジジイもいなくなるだろうし、この城はおしまいだ。そしてこの――国も。
たとえそうなっても旅人で保っているようなあの盛り場が廃れるとは思えなかった。
他の場所に住んでいる人間のことは……よくわからないが、まあみんなそれなりに
何とかやっていくことだろう。むしろ、当面の納税先がなくなり万歳と快哉を叫ぶかもしれない……。


何故もっと早く考え付かなかった。そう思い、サンジの顔は晴れた。
考えが決まったというのに何故か薄ら寒い思いに捕らわれる気がしたが、構わず、サンジは
のそりと立ち上がり、明かりをつけると、もう一度戻って一人長椅子に座り直した。

時計が見当たらず、時間がわからない。

遅くなってるのかな……

待ち人の来訪を期待して扉に目を向けたとき、外で足音がして、低い声が聞こえた。
今度は軽々と身を起こし、出迎える。

だが、その足が途中で止まった。


入ってきたのは踊り子でも楽団でもなく――、
一人の怪しげな人物だった。





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