< 青 天 >



出航が迫っていた。
誰に追われているわけではなくとも、この時間はいつも慌ただしい。

船員50名の大船団ならともかく、両手の指にも余るメンバーが小さな船でゆっくりと漕ぎ出す、それだけのことなのに、今日もやはり、波を受ける船の揺れに合わせるように、すでにクルーの心は落ち着かなかった。忙しなく船の周りを見回る者、なぜか小走りに船内を行き来する者、船長に代わって指示を飛ばす者……全員の気持ちは揃って、はるか沖の向こうに飛んでいる。
その勢いが揺さぶるのか、舫が解けんばかりに鳴っていた。

船長は、メリーの上に陣取っていた。

いち早く戻ってきて、揃っている顔を確認した後は、足りない仲間のことを尋ねようとはしなかった。
船出の声を上げるまで、ただじっと、船の向く先の一番突端に座って、静かに波の音を聞くつもりなのだろう。

この先に何があろうと自分が真っ先に出て、みなをその両腕で護り、最後まで退かぬという、新たな覚悟を決めているのがわかる。


サンジは、ちら、とそこに目をやって、続いて桟橋と荷車の間を往復している男に視線を移した。

「これで最後だ」

そう言って、屈強な男は両肩から大きな麻袋を下ろした。

「ああ。ご苦労さん」
「……こりゃどうも」

多めのチップを手にした男が驚いた顔を見せ、汗をぬぐったタオルをそのままに、頭を下げた。

豆を買った。
大量に。

小山のように積まれていたその迫力に、思わず足を止め目を見開いた。
だって、そこは、八百屋であって、豆屋じゃねえのに!
こんなに豆を置いちゃあ、他の野菜が霞んじまうってえのに!

そこにその日の店主の気合が凝縮されていた。
今日という日をこの豆に、賭けたのだということがよくわかる。

それほどに、見事な、山だった。

完敗だ……
脱帽する思いで頭を垂れ、そっと歯を食い縛り、それから中にいた男に声を掛けて、小山ふたつを買い占めた。

その気概、俺様がそっくり受け取ってやろうじゃねえか。

清々しい気分だった。これは挑戦だ。静かでありながら確かな挑戦。
自分はそれに応えるのだ。
コックとしての本分を思い出し、血が湧いた。


届いた品は、メモと突き合わせ、運ばれる間に全て確認を終えていた。
順番に格納庫やキッチンに収め、あとは最後の、豆の袋を残すのみだ。
男が置いた大きな袋を、再び抱えるために腰を下ろす。

これを両側に担いでタラップを上がるのは、そう簡単なことではない。
一つずつにしようか、そう思った時、そのひとつが目の端ですい、と持ち上がった。

泥棒!?
なわけはない。

―――ゾロだった。

当然のような顔をして、刀のない方の肩に袋を担ぎ上げ、船に向かおうとする。


どこで何をしてきたのか……
随分とゆっくりなご帰還だった。

まァた道がわかんなくなっちまったのか?だから一人で出歩くなって、普段からみんなに言われてんだろうがよ。お前ぇが最後だぜ、わかってんのか。
もう少し遅かったら見切り発車されてたかも知れねえくれえの大遅刻だ。

……言い訳もなしか。


今日の買い出しは買い忘れの補充程度だから荷物持ちはいらない。そう言ったら、珍しく本当についてこなかった。これまでは、余程のことがない限り、何を言っても、街を歩く自分のそばを離れようとしなかったのに、一体どうしたというのだ。さては何かあったのか。

無論、あいつなりに用事もあるんだろう。
一々それを説明するのも面倒なのだろうと想像は付く。

だが。

「刀を直しに行ってくる。」

ぐらいのことは、言い置いて行ってもよさそうではないか?
いや、別に刀に限らない、「ちょっと、面白そうなモンでも探してくるか」でも、「いい酒がねえかな。たまには自分で見てくるぜ」でもいい、

何か一言いって行けばよさそうなものを。

「そうか」

それだけ言って、あとは黙って道を違えた。

その後ろ姿を目で追って、胸の真ん中あたりがちくりと傷んだことは、紛れもない事実だ。


こんなに遅くなりやがって。
日差しを浴びて着々と光合成を進めるマリモ工場を睨み付ける。

その視線を感じたのか、行きかけたゾロが途中で立ち止まった。
不審気な顔で振り返り、サンジを見る。

その姿に、掛ける言葉が見当たらなかった。
そのまま見続ける。

「運んでいいんだろ?」

不良が、唯一心を許した教師に指示を仰ぐような口調だった。
ああ、もちろん。お前らの口に入るモンだ、誰が運んだって構やしねえ。
そう思い、尚も黙って逆光になった丸頭を凝視する。


―――と、
不意にゾロが唇の端を緩めた。


後ろから燦々と照りつける日を浴びて、なぜか強面の頬を和らげ、重い荷物を運んでいるというのにほんとに何故なんだ、まさか俺の顔か格好のどこかがおかしかったのか、確かに笑った。

鼻で息を吐かれて、普通ならカッと頭に血が上るところだったが、優しそうな目付きに当てられて、そんなごく真っ当な反応もできない。


サンジが息と言葉を呑みこんでいるうち、ゾロは再び前を向き、タラップに足を掛けて上り始めた。
一歩一歩甲板へ向かう足が、まるで空へ昇って行くように見える。

船へ、―――家へ、

帰っていくところなのに、
仲間の元に、自分の懐に、帰って来たはずなのに、


なぜか遠くへ行ってしまうように見えた。

「お。ゾロ!」

敷居を跨いで帰り着いた最後の仲間に、船長が抜かりなく寄って来る。

「何持ってんだ、食いもんか?」
「触るな」
「なんだよ、ケチ〜」
「そうだそうだ、ゾロのケチ〜」
「は? チョッパー?」

見えないが、そうらしい。

「ぷ……お前、鼻の頭に何つけてんだ」
「え?」
「あー、ほんとだ。何だそれ!何かに似てるな!何か美味そうなモンに!!」
「ははははは」

白い歯が光る。
眩しい。今や本格的に光の中に囚われている、その姿を直視することができない。
笑い声がどくどくと腹の中に沁み渡った。


眩暈がする。
足元が揺れて、サンジは膝を付いた。
その小さな音を、剣士は聞き洩らさなかった。
慌てて目を留め怒鳴る。

「おい!」

何でもねえ。
いや、こんな声じゃ聞こえねえよ、もっと、ちゃんと、言わねえと。

「コック!」
「大丈夫だ!」

俺の傍から離れ、俺の知らない時間を過ごしてきたくせに、それでも俺を心配しやがるか。
尚もこちらを見ている様子なのを、手を振って元の賑やかな輪の中に帰そうとした。



動悸がした。


脳裏を影が過る。―――海。―――魚。―――船。
波の音が耳の中で煩く響き、光の塊が飛び回った。

震える指を伸ばし、懸命に、すぐそばにあるはずの麻の袋を探る。
どこかに落ちて行きそうだ。恐ろしい。

長い時間が経った。
だが実際は、ものの数秒だったかもしれない。

サンジは大きく息を吐いた。


そうか……俺は……



体を支え、起き上がる。
慎重に、豆を担いで姿勢を正す。

おい。
心しろよ、自分。

そう言い聞かせた。

今から踏み出すのは、
これまでとは確かに違う、一歩になる。







夜半過ぎ、船体は、安定するのに十分な沖合を静かに航行していた。

みな、元気だった。
いつもと変わらぬ賑やかさだったが、出航時の緊張が疲れを呼んで、食べた後はすっきりと眠りに落ちている。

サンジは見張り台の中で、落ち着いて、煙草を燻らした。
準備はすっかり整っている。あとは待つだけだ。

細い三日月を見上げ、その余りの輝きに感心してつい小さな声を上げたとき、ようやく気配が現れた。

柔らかな空気を押してくる、聞かん坊のような足取り。

仏頂面が覗きこむ。
昼間の顔とは違う。

ゾロは黙って木を跨ぎ、サンジの向かいに着地した。
視線はまず周囲を捉え、微かに驚いた様子を見せる。

「いい酒冷やしてんじゃねえか」
「……わかるか」
「何かいいことでもあったのかよ」

ああ、神よ。

どこにいるのか、今まで全く考えたこともねえが、神よ。
あ、それかもしくはジジイよ。

これは―――

“嫉妬”、 だな?

俺の知らねえところで何かいいことでもあったのか、
俺の知らねえ奴とてめえとの間に何かあったのか、
何があった、
場合によっちゃあ、場合によるぜ。

気にしている。
不安を感じている。
そうしていることを隠しもしない。

全身全霊、生身をぶつけてくる男。

サンジは、今まで散々見てきた、ゾロの体のあちこちを眺め回した。

「何だよ……」

嫉妬を引きずる男の声は刺を帯びている。
不意に体の力が抜けて笑いが出た。

「?」

互いの間にあった薄い、破線の境界がすいと消える。
ゾロが身を乗り出し、サンジを抱きしめた。

「ははは、まあ慌てんな、まずはその美味い酒を飲め」

去り際に口付けが一つ、落ちていき、身体を電流が駆け抜けた。
これも取って置きのグラスに、10年物のシャンパンを注ぐ。
出来ればその色を、自然な光の下で愛でたかったが、そうも言っていられない。

「じゃ、ま」
「……」
「乾杯」
「何にだ」

はは、本当に可笑しい。

「んー、そうね」

顔の前まで掲げた、微かにそれとわかる薄い琥珀色のむこうに、確かに息づく熱。

「大いなる降伏に?」

剣士は怪訝な様子で、それでも杯を傾けた。
一口呷って手元を見つめ、「降伏?」と呟き、続けて真っ直ぐにこちらを見て問う。

「てめえはまた、誰かに負けでもしたのか」

サンジは、上品で高級な液体をひと息に飲み干すと、グラスを手の届かないところへ置いて、ゾロの懐に身を投じた。

「おい!」

慌てて剣士も酒を庇う。開いた脇の横に手を差し伸べ、鼻の頭で顔を撫で、唇を探し求めながら、囁いた。

「ああ負けた」
「何!いつだ!」

敏感に反応した剣士が一瞬冷静になりかかったが、それ以上は言わせなかった。


―――オールブルー。
―――ジジイ。

―――ナミさん。ロビンちゃん。

―――船長。


いくつもの扉を順番に、だが手際よく閉める。
これでもう、逃げられない。

サンジは一旦身を離し、ゾロの顔を真正面から見つめて、誓うように、心の中で言った。


全部。全部だ。
全部お前にやるよ。


―――ゾロ。












end




ここまで来るのに7年半掛かりました(私が)。長かった。

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