機は熟した。















その日。世界は奇妙に静まり返っていた。
明けきらぬ空の下、鳥がたった一羽、鋭く啼き、飛び退った。いつのものようにレイリーと向かい合い、
眼を合わせた船長は、軽く息を呑み、そして悟った。

「終わりだな」
「ああ。もうキミが覚えることは一つもない」

船長はもう一度、音がするほど大きく息を吸い直し、それを今度は思い切り吐いた。

「ぃよおおおおおおおおし!」

時も、距離も隔ててはいたが、そのことを他の仲間もみな敏感に感じ取った。

「終わったようね」
「何がです? ニコ・ロビン」
「我らが船長の助走期間」
「……?」

「さあ〜、行くわよ〜」
「いつかはこの日が来ると分かっていたが、いざ来てみると、いやお名残惜しいなあお嬢さん」

「ウソップン。元気で」
「おう。お前もな」
「震えているのかん?」
「む、武者震いだっ!」
「心配するなん。ウソップんは間違いなく、本物の海の勇者だん!」

「フーッ。ついに来たか。じゃあ俺は行くぜ」
「サンジ! 行かないでっ!」
「未練がましい真似するんじゃなキャブルよ、キャンディたち! とっとと船をお出し!」

「それじゃあな。邪魔したぜ。あ、これとこれとこれは、後で取りに来るからな、きっちり仕舞っといてくれよ」
「ああ……しかし、大荷物だな。大丈夫か」

「たぬきちー。たぬきちー」
「うおおおん、うおおおおおん、ざびじいよう〜〜」

「それではみなさん、どうぞ長生きしてください」
「お前もな!」

一人だけ、気が付かぬ者がいた。曇天の下に聳え立つ城の中、暖炉の前で、
丁寧な手付きで剣の手入れをしている。

「いいのか。のんびりしていて」
「何がだ」
「麦わらが動くぞ」
「何!」

はあ。と二年の間、師匠を務めた男が溜め息をついた。

「大丈夫か。ちゃんと辿り着けるんだろうな」
「なっ!」
「なんなら付いて行ってやろうか?」
「必要ねえ!」

やがて一味は一つの風に、気持ちを乗せた。
世界中の空から。海から。
遠く近く、それぞれの想いは気流や海流に乗って、渦巻き、流れ出す。
それにやや遅れて、
九個の肉体が追行した。



最高級の技術を以て大切に保管され続けていた木の獅子は、常に万全の態勢で
出航に備えられてはいたが、レイリーが最後にもう一度点検を済ませると、
平素より一段と息を潜め、水を抱えて低く啼いた。

「黒髪の彼女から、伝言」

シャッキーが、一番に到着した船長に告げた。

「了解。有難う」 
「どういたしまして。せっかくまた逢えたのに、すぐに行っちゃうのね。淋しいわ」
「また会えるさ」

頼もしさを増した船長のセリフに、思わずシャッキーの頬が染まる。
それを軽くやり過ごした船長は、羽織っていたマントの下から両腕を伸ばし、船の縁を掴んで、




 
―――――飛んだ。







































<とりかへばやオーバーカム>












空中で眼の淵に閃光を感じ、僅かに身を固くする。と、耳の横を掠った球が上空で弾け、
軽い音と大きな光が広がった。

「ウソップ謹製、セレブレーション・ファイヤーワーク☆」
「おおーっ!」
「よう、ルフィ!」
「ウソップ〜。元気そうじゃねえか。俺たち一番乗りだな?」
「でもねえよ?」

指差す方に林。そのうちの一本の脇に茶色の塊が見える。元に戻ったのかネタなのか、
懐かしい、頭隠して尻隠さずのポーズだ。

「チョッパー! 出てこいよ!」
「お、おれ! 別に三日も待ってたわけじゃねえぞ!」
「いいから!」

パァーン!
二つ目の花火が弾ける。

「煩く鳴らねえように、特に気ィ使った」
 
その言葉通り、光と色は華やかだが、響きは小声で喋っているかの如しだ。

「腕、上げたなあ」
「へへへ」
「なになに、先越されたってかあ? ま、祝いに花火は誰でも思いつくことだ。こんなこともあろうかと
二の手を用意してある」
 
金属音が空気を掻き乱し、嗄れた声が続く。フランキーはケンタウロスになると、そこに自ら金ぴかの
神輿飾りを乗せ、山車と化した。

「わっしょい、わっしょい」
「相変わらず、バカね」
「ナーミーすわああああああんんんん??」

かなり手前で思わず呟いたナミの更にまた前方から、旋風が突進した。

「ナミさんっ、ナミさんっ」
「サンジ君、久しぶり〜」
「ああ。今日のこの日が来ることを、俺は信じて試練を乗り切ったよ。君は女神。毎日空にその神々しい
姿を浮かべて、一生懸命お祈りしたんだよお〜〜〜。ィヤッホイ!」
 
サンジはナミをさっと横抱きに抱き上げ、そのまま走りだした。

「ヨホホホホ! 待ってました、コックさん! おや? 貴方も腕を上げましたね?」
「あぁ? なんだ骨〜。俺の何が上がったって?」
「何気に、成功してるじゃないですか〜」
 
ブルックがパラパラと、エア姫抱っこを形作る。
ナミが朗らかに笑い、サンジは「うーるせえ」と応じてさらにスピードを上げた。


 
どの顔も、興奮に輝いていた。
船長が全員を見回しにやりと笑った。

「ロビンは遅刻だ」

皆が頷く。

「ひとり、足りねえな」


一瞬の沈黙の後、「もう少し待ってみようよ」と、チョッパーが一人、取り敢えず口にした。
カシャカシャカシャ……
その船医含め、一同の頭の中で計算機が動き出し、
カシャ。チーン♪
すぐに共通の解が弾きだされた。

 
 迷。


「「ええええええーっ!?」」

うっそぅ、ありえねえだろ。だって、ビブルカード持ってんだろ? けどゾロだもんよ。ああそうか、
ゾロだもんな。あー。ゾーロー……

「いや、どうすんだよ実際〜。子電伝虫なんて気の利いたモン携帯してるわけねえし」
「ああー。全員間違いなく集合できると思ったところが甘かった」
「ゾロだったもんなー」

わいわいがやがや、ちょっと楽しそうにも見える久しぶりの《討議》で盛り上がる。
一通り全員が喋り終わったとき、ごく平和的に、

「俺が行こう」

とサンジの手が挙がった。

「え?」
「心当たりがある」

行き着いてそこにいなければ真っ直ぐ戻る、入れ違いならそれでよし、万が一自分が先に戻ったら、
その時は改めてチーム全体で動く。そう決めてサンジはもう一度船を降りた。
 
ったく。
再出発の門出に思いっ切りケチつけやがって。
やっぱ治んねえもんは治んなかったかと溜め息混じりに高速ボンチャリタクシーを捕まえ告げた。


「1番グローブまで、宜しく?」

 

マングローブの続く景色に同調しながら勘を取り戻そうとした。基本的に好意的だったキャンディ共に
囲まれていたこの二年とは違い、どこにどんな敵が隠れているかわからない。サンジは、口数の少ない
ドライバーの横で、注意深く周囲の様子を窺った。敵だけではない。これから海で遭遇する様々な事象の
些細なヒントが、ここに落ちていないとも限らない。これから先の航海には、これまで以上に敏感に、
そういうものを感じ取り対応していくことが要求されるはずだ。覚悟だけでは乗り切れない海の厳しさを、
改めて心に刻んだ。

そんな、襟を正すような気分が不意に鋭く断ち切られた。
暫く夢でしか見なかった姿が突然視界に飛び込んだのだ。
いきなり胸が詰まった。

初めて見る黒シャツだ。
少しでかくなったんじゃねえか? 気のせいか。


サンジは一旦その姿から目を逸らして、車を停めさせた。
胸元から煙草を取り出し、火を点けながら、殊更にゆっくりと歩き出す。

「ふー」
「あ……俺ぁ間違ったのか?」

眼だけでサンジを認めた《最後の一人》が、さして驚く風でもなく呟いた。同じ声。顔も変わっていないように見える。
腰には変わらず三本の刀だ。
だがなんて素直な。これがマリモの成長なのかと一人感慨深い。

さて。
改めて上からざっと検分する。
髪、ちょい長め、そのせいで若干風に靡き加減。こいつがあっと驚く猫っ毛なことは、多分俺以外誰も知らねえ。
日に灼けた肌。胸元に、ペンダント? しかもクロス。ほほう。
その飾りがタイミングよく陽を浴びきらりと光って、サンジは舌を打つ思いでその先の走査をやめた。

「てめえは。まんまと師匠カラーかよ」
「あ?」
「鷹の目んとこにいたんだろ?」
「……何で知ってんだ、んなこと」

挨拶もそこそこにいきなり踏み込んだことを言うと、マリモの目がやや警戒色を帯びた。

「ハ……俺がどこに収監されてたと思うんだ。え? 天下一噂好きな野郎共の集結した島だぜ? 
ったく、毎日毎日一体どこから仕入れてきやがるのか、世界中の海と言わず陸と言わず、
そこら中からひっきりなしに、玉石混交、いろ〜んな情報が入ってくる。それこそ誰か代表して
キクキクの実かなんか食ってやがったんじゃねえのかっつーほどの詳しさだ。午後のお茶の時間にでも
なってみろ、それを肴に、来る日も来る日も、あーでもねえこーでもねえと姦しいことこの上ねえ。
ちょっといい感じの目立つ男なんざ、横っ面にカメラでも貼り付けてるぐらいのフォローっぷりだぜ」


『なんと! あのミホさまが弟子を取ったそうよ!』
『まあ悔しい! アタシが何万回頼んでもウンと言わなかったくせに! きい!』


「ちょっといい感じの……」
「ああ」
「だがそれがなぜ俺だと」
「いろんな情報を総合的に擦り合わせたら、てめえ以外ありえねえだろうが」



無論、すんなり受け入れられた事実とは言い難い。
あの時、あそこで何が起きたのか、忘れている者はいないだろう。鼻っ柱だけは強そうな、
だが一見してまだ青い、風評先行型の《海賊狩り》が、馬鹿らしいほどの意地を見せ、
酷い無茶を押し通し、世界最強相手に歯を剥いた。
動揺の余り自分は咆哮し、可愛い子に旅をさせたかったジジイは背中を押され、
踏ん切りを付けるスタンバイに入った。


《野望》。

実に数万年ぶりに思い出した言葉だ。そんな言葉が存在すること自体、それまですっかり忘れていた。
だが思い出した途端、それは常にコイツと対になった呪文になって、それからずっと俺に付いて回った。

命すら捨てたという。
いや、だが、命捨てちまっちゃあ叶う野望も叶わねえだろうと突っ込みたいのをぐっと抑えた途端、唐突に
闘いは始まった。勝負はあった。だが同時に次が約束された邂逅だった。仕切り直してもう一度立ち向かう、
その日のために強くなる……その一念を胸に、バカみてえにまっしぐらに進み続けてるんだとばかり、思ってた。

その、当の相手に頭を下げる?
それを、あいつ自身が選択しただと?


混乱しねえ方がどうかしてる。



すぐにでも首根っこを捕まえて、どういうことになってやがると詰問したくても出来ねえ、そんな俺の焦燥を、
てめえは想像したことがあんのかよ。
顔見たら真っ先に取っちめてやろうと思う反面、踏み込み方を間違ったらと思うと怖かった。
迷いは隙を産む。過たず、目敏く察したキャンディ共にそこを突かれる。このストレス。
だが、取り敢えず今は忘れることにした。

サンジは最後のひと息を吐き、煙草を捨てた。
マリモが控え目に身体の向きを変えた。何を躊躇う?
サンジは少し気にしながら真正面に立ち、一呼吸置いてから、互いに腕を回し、固く抱き合った。

「太った!」
「ヤセた!」
「ったく。てめえ、何喰ってたんだ」

腕を緩めず、背中と、その先の地面を見ながら聞く。

「てめえの作る飯じゃねえ飯」

耳元で囁く、男。俺の。

「……」

腹斜筋と広背筋の成長っぷりが凄かった。その力の掛かりようから察して、きっと、肩や腕も
一回り大きくなっているのだろう。


「早く喰いてえ」
「飯を?」
「どっちも」
「―――っ」

前言撤回。

「てめえは。まるで変わってねえ!」

フッ、とそこで剣士が初めて顔を緩め、「お陰さんで」と低い声で告げた。


「行こう。みんな待ってる」
「ああ」




ゾロがやや重々しくブーツの踵を鳴らし、サンジの方は軽やかに身体を開いて、
共に並んで歩きだした。
静かだった。何だか拍子抜けするほどだ。野望の顛末はともかく、二年もの間、
いざ再会した暁にはああするこうすると、色々考えていたのがウソのようだった。
まさか……照れ臭ぇのか? マリモのくせに? ったくしょうがねえな。っつーか俺か。

マングローブの匂い。シャボン玉の匂い。やや蒸れたような土の匂いと空気の重み。
脚は、そことは違う風に覆われた、世界へ繋がる海へ、そこに宿された船へと向かう。


「みんな揃ったのか」
「ああ。急いで帰らねえと」
 
横で剣士が小さく顎を上げ、はっきりと言った。

「長かった」
 
ああ本当に。

「こうなるともう、一秒も無駄にできねえ」
 
そう応えた。


土の熱が靴の底から足の裏に伝わってくるのを感じながら、歩き続ける。
熱は下肢を這い上がり、進む足と頭を痺れさせた。
剣士の足取りがふと和らいだ。今度は、歩みを、躊躇ったのだとわかった。

「それは」
「確かに」
「そうだが」

相次いで立ち止まる。
何をする……呼吸だけを続ける。
そして同時に横を向いた。


何と言うことだ。こんな時に。

人気のない番屋がそこにある。





こうなれば競争だ。どちらが先に到着するか、全速力で走った。
扉は素直に開き、息を切らせた男二人を優しく出迎えた。ロープはきちんと壁に掛かり、
網は畳まれ隅に置かれている。
今日のこの日の自分たちの振る舞いをよしとする、幸先のいい兆しと受け取った。

「捜索に、思いのほか時間が掛かったことにしろ」
「俺の落ち度かよ」
「今は譲れ」
「へっ。一つ貸しだからな」

戸口に犇めき合いながら、上ずる声でそれだけを確認した。
まずどこが触れたのか、多分腰の辺りだろう。ほんの僅かに、布同士が掠っただけだ。だが十分だった。
それを合図にもつれ合うようにして中に駆け込み、最後に、空けた扉を閉めるだけの分別を使い切った。


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