紅之巻




薄絹の旋律





今年の冬は、暖かい。いや去年もだったかな?
思いながらイルカは、柔らかな陽光が差し込むアカデミーの廊下を歩いていた。

少しずつ、可愛らしい声が近付いてくる。
授業の前は静かに座っていなさい、と言いながら、この、函の内に収まりきらない、
明るく弾ける光のような喧噪の空気を、実は嫌いではなかった。

全員まだ、自分の腰にも足りない小さなこどもたち。

新入生を担当するのは久しぶりだった。
春に初めて顔を合わせたときはその辺で遊んでいるほかの子供と何の変わりもなかったが、
さすがにこの頃では、どうやら忍の《姿勢》ぐらいは身に付けつつある。

これで一歩を踏み出したのだ。
そう思うと、責任感の重みで改めて身が引き締まった。

もう、戻れないんだぞ。
小さくて、薄赤くて、目のきらきら輝いた顔を順に見渡しながら、言葉に出さずに伝えた。
せめて強く。進むにしろ、戻るにしろ。祈る思いでつい、頭を垂れると、
「せんせー、まだですかー?」邪気のない声がそう言って、“きょうのれんらくじこう”の続きを
促されたのはついこの間のことだ。


扉の前でひとつ、深呼吸をしてみる。
さて。では今日も行くか。


ガラガラガラ……

喧騒が―――――、一気に高まった。
うわあああああああ〜〜〜〜〜
せんせいだ〜〜〜〜〜〜ああああせんせい〜〜〜〜〜


いやうるさい。
そしてそこ! いい加減に喧嘩をやめなさい。


ガタガタガタ! ドシンドシンドシン! ガーーーーッ! びりびりっ! ヒューン♪


イルカは教壇に進み、全ての物音が治まり静かに埃が舞い落ち始めるのを待った。

「みんな、おはよう」
「おはようございまーす!!」
「今日も元気そうだね。では出席を取ります。秋野紅葉!」
「ハイ!」
「お、髪の毛切ったのか?」

入学以来のお下げが思い切りよく肩までになっている。泣き虫な末っ子が、なんだか急に
成長して見えた。

「ハイ!」
「いいじゃないか〜。その赤い髪飾りもなかなか似合うぞ」
「えへへへ」
 
そのときだった。眼の淵を黒い影がよぎったような気がして、イルカはふと教室の隅に
顔を向けた。
何もない。出席番号2番の子供が既に手を挙げているのが見えただけだった。

おかしいな。

「浅井……海!」
「ハーイ!!」
「おお海。すっかり治ったな、傷」
「うん!」

頬に貼られていた最後の絆創膏が消えていた。煙玉の実習の時、家から持ってきた花火
の方にうっかり火を点けてしまい、大怪我をした腕白だ。ほんとうに、大したことがなくてよかった……
改めて胸を撫で下ろした時、再び妙な感じが、今度は頭の上の方を走った。
 
何か腑に落ちない。首の後ろがすうすうする。
静かに呼吸を整え、何気ない振りで、そっと腰元に手を伸ばす。

「伊賀野カバま……そこかァ!!」

顔を上げ様に、教室の最後部めがけて二本のクナイを鋭く飛ばした。驚いた子供たちが
振り向くよりも早く、僅かに上がった片手が指の間でそれを音もなく止める。

「おはようございまーす」



な……   なんだと?    




その相手を見て心臓が止まりそうになった。

呼吸の方は実際に少しの間止まって、慌てたイルカは大急ぎで酸素を取り入れた。
目の淵が痛くなるほど見開き、眺めても、まだ信じられないが、そこに、見える、
し、侵入者は―――――、

「カカシ先生っ!!?」
「ハーイ」

はははははは。教室中に笑いが広がった。いや違う、呼んだわけじゃない!
だが間違いない。どう見てもカカシ本人だ。一体何でこんなところに…… 流石、と
いうべきか、入ってきたことにはちっとも気付かなかったが、ほんとに何だろう。まさか
上忍による授業視察だろうか? だがこんな予定、聞いてないぞ。ひょっとして
抜き打ち?……しかし……よりによって。カカシ先生とは。


さっき別れてきたばかりなのに。


だーれ、だーれ? ちがうせんせいだー、あれー、せんせいもせいとなのかなー?
絶句しているイルカを生徒たちが見つめ、ついで後ろを確認し、騒ぎ始めた。

「あ、ごめんなさい。どうぞ気にせず続けて下さい、イルカ先生」

……っ! 気にせずにはいられませんが、続けますよ!
遠くから眩しいスポットライトに照らされる中、懸命に集中力を振り絞り、残りの出欠を
取り終える。

「それでは……はぁ……今日の……か、課題に移ろう」
「せんせー、だいじょーぶー?」

カカシも見ている。マスクの上で眼が細くなっている。

「そうだ、その前に。今日は特別ゲストがいらっしゃいます。上忍の、はたけカカシ先生」
「じょうにんっ!!?」

我ながらいいことを思いついた。こうなったら、この顛末については自ら語ってもらうとしよう。

「みなさん、こんにちはー」

唐突に振られたというのに少しも動じず、カカシは言ってにこやかに片手を上げた。
ざわめきが漣の如く教室中に広がる。
じょうにんだって……すごいね……おれ、はじめてみたよ……じょうにんか〜、かっこいいねー
……ほんものかな? さわってみようか。ばか、やめなよ!……

「今日は、ちょっとだけ、みんなの授業を観察しにきました。邪魔にならない様にします
ので、よろしくお願いしまーす」
「はーい♪」

はっ。あっさりと同調。別に何の術も使っていないことは明らかだ。観察ね。よし、
何のつもりか知らないが、それならそれで、こっちもいつも通りやるだけだ。
気を取り直し、授業を進めることにする。

「はい、じゃあこの前のように班別に別れて。クナイの使用法について復習します」

子供たちが汗をかきながら重い机を片付ける横で、任具の準備をする。用具入れは教室の
後ろ、それもたまたまカカシのすぐそばにあったため、自然と身体が近寄った。

「教室で見るアナタも素晴らしいですね」
「っ!」
「生き生きして……。優しげで……。俺、ちょっと子供たちに、ジェラシー」

耳元で囁くんじゃない!
嫌でも昨日の夜がフラッシュバックする。
振り切って、箱に入った練習用クナイを引っ張り出した。
それでなくとも今日は新しい課題に進まねばならないのだ。そうだ。カカシなんぞに気を
取られている場合ではなかった。

あれは傀儡、あれは傀儡……

教室の隅に下がった男の方を見ないようにして、懸命に呪文を唱える。身体が離れ、
声の余韻が薄れると、遠くは細目で見るようにした甲斐もあって、それが次第に効いてきた。
いいぞ。この調子で行こう。一通りの復習の後、本日のメインイベントに移る。

「じゃあ次。今日はこのベストを着てみるぞ」
「はーい!」

本来初心者に教えるべき内容ではなかった。だが、始めから限界を定めず色々なものに
触れさせるというのがこのアカデミーの方針だ。新入生だろうが子供だろうが、こちらが区別せず
あらゆるものを提供すれば、そこに思いもかけない才能の眼を発見できるかもしれない。
順を追って一律に教え、たくさんの生徒たちの成長をのんびりと待つ、そんな余裕は今のこの
里にはなかった。

「みんな着られたかー? じゃあまずこの、胸のポケット。これの使い方を説明するからよく聞いて。
ここには普通、巻物を入れる。通常サイズのもので3本から4本をしまうことができるが、各々
自分の術に応じた巻物を常に持参し、必要に応じて取り出すことになる」

身体を丸くして座る小さな一団から、熱いほど真剣な眼差しに見上げられる。その頃には
もう、カカシの存在感はすっかり薄くなっていた。

「みんなは今敵と戦ってる。仲間もそれぞれ応戦中だ。だが、たとえチーム戦であっても、誰かが
カバーしてくれるなんてことは考えない方がいい。何度も言うように、忍は基本“ひとり”だ。
見えるところに仲間はいないときの方が多い。だが、大きな任務というものは、そうやってあちこちに
散った一人ひとりの動きが集まって初めて、遂行することが出来るんだ。ひとりの動きが拙ければ
他の者の足を引っ張り、その分、成功率は下がり、味方にダメージを与えてしまう。任務の中止、
退却に繋がったり、最悪の場合、隊が全滅するようなことにもなりかねない。だから常に最善の
動きが出来るよう、身のこなし、忍具の扱い、そのひとつひとつを普段からよく練習しておかなけ
ればならないんだ。わかるね」

小さな子供に言って聞かせるには難しい話だった。だが例えそうであっても、繰り返し教え
込まねばならない。それが自分の命を、仲間の命を、ひいては里全体を護る為には絶対に
必要だったからだ。

ごくり。唾を飲み込む音がする。
ここで真剣になれるということが、この子達の成長の証に違いなかった。

心の中に、力強い灯が点る。
瞬間、うっかり油断して、こちらを見つめるカカシと目が合った。

カカシはにっこり笑い、そしてまた少し、悔しそうな顔をした。
頬が紅潮するのがわかる。せっかく忘れかけていたのに……
大体そんなところで中途半端に立っていられるのがいけないと思った。見られていると思うから
緊張するのだ。そうだ。いっそ仲間に組み込んでしまえば……

「ということで、今日はせっかくカカシ先生が来て下さっているので、実際に模範演技を
やってみせてもらうことにしよう」

わーい。子供たちから大きな歓声が上がった。再度の突然な振りにもやはりカカシは動じない。
当然といえば当然なのかもしれないが、自分とは違うその余裕たっぷりな様子が何とも小憎らしい。

「えー。俺? 上手く出来るかなー」
「できるよー、じょうにんでしょう〜?」
「じゃあ、ちょっと、失礼して」

しめた。上手く乗ってきた。これで何とか時間一杯もたせよう。イルカはほっと息を吐いた。

前に出たカカシがイルカの横に立った。ちらりと顔を窺う。いつでもどうぞ? カカシは軽く微笑んで
から、改めて前を向いた。その身体の周りに、はっきりと、薄い闘気の気配が漂い始める。

途端に体の芯が熱く疼いて、イルカは慌てた。
何という色気だ……
例え子供たちの前であっても、実際の忍具を扱う段になって、カカシは間違いなく、戦いに赴く
戦士の横顔を見せていた。

いやいけない、見惚れている場合じゃない。
咳払いを一つ。

「んんー、さて、さっきも言った通り、いざというとき素早くこのポケットから巻物を取り出すわけだが、
敵を前にして、術を仕掛けながら行うわけだから、動きには少しの無駄も許されない。それはわかるね?」
「はーい」
「もっというと、できればそこへ手を伸ばすことすら感付かせたくはない」

えー。むずかしそう〜。

「そうだ。だからこそ、これを着られるのは普通中忍以上とされているんだよ。いいか。
まずゆっくりやってもらうから、よく見ておくように」
「はーい」

カカシが真っ直ぐ前を向いたまま、ポケットの留め金に指を掛けた。続いて軽く押し、
解放された巻物を、指を伸ばして下で掴む。

長い指が胸まで持ち上がり、ゆっくりと、イルカの声の通りに動いていく。


ぞくっとした。

厚手の生地の上を、触れるか触れないかの位置で動く指。
手の動きを追って、薄い布が舞うようだった。
自分の膚の上を這うときと全く同じだ。

あの指が、
胸で遊び、腹を這い、勿体つけてわざとそのままにした、薄い下着の上からそこを撫でる。

「……!」
「せんせー、それからー?」

はっ、いけないいけない。

「じゃ、じゃあ今度はもう少し早く、やってみてもらおう」

すっ。カカシが、元に戻した巻物を一挙動で再び取り出して見せた。

「はやすぎてわかりませーん」
「えっ。じゃじゃ、じゃあ、もう一度ゆっくり……お願いします」
「ハイ」

指が再び動き出した。じっと見つめていると、上腕に、首の後ろに、腿の内側に、まるで実際に
触れられているかのような感覚が呼び起こされる。

駄目……だ、やめてくれ……
息が上がり、熱が身体の中心に集まる――――

動作を終えたカカシがにっこり笑い、その瞬間我に返った。マスクの下で口が歪み、その眼が白く、
光を放っている。

くそ、なにか、仕掛けたか……

「じゃあ、みんなそれぞれしばらく練習するように。カカシ先生はちょっとこっちに」
「はい」

腕を引っ張るようにして廊下へ連れ出した。

「アンタ、一体どういうつもりですか!」
「何がですか?」
「ここに来たのは、火影様の命なんですか?」
「まさか」
「じゃあ、校長から何か……」
「誰からも、なんにも言われてません」
「えっ……」
「ただ俺の判断で、今日はこの授業を見学することに決めたんです」
「そんな勝手な!」
「俺が何かをしようと思うとき、その意思や目的を、どこかに報告する義務があるんでしょうか」
「……」

そう言われれば一言もない。何と言ってもこの人は、里の中では絶対的な権力を持つ、
≪上忍≫なのだ……
唇を噛み締める。そんなイルカを余所に、カカシが少し心配そうに顔を覗き込んだ。

「俺、うまくやれてましたかね」
「え?」
「模範演技……」

そう言って再びポケットに指を這わせようとするカカシを、
「やめてください!」と叫んで止めた。震え出た声を今更押さえようと、口を覆って
みても虚しかった。

カカシがそっと、その上に自分の手を添えて、優しく言った。

「イルカ先生」
「……」
「今日も、帰ってきますよね?」
「え?」
「オールナイトの忘年会なんて、行きませんよね」

はっ!?

今年のアカデミーの忘年会が、幹事のノリで夜を徹して行われることになった、ということは部内秘
ではなかったのか? 言うと面倒になると思ったから、今朝出掛けに予定を聞かれて、会に行くと
だけしか伝えていなかったのに。
どこから漏れた……

「俺だって別に、凄く行きたいわけじゃありません。でも、出なきゃ出ないでまた面倒なことになるんですよ」
「じゃあ、迎えに行ってあげましょうか? 開始30分後ぐらいに」
「それじゃあ意味がない!」
「でしょ? だったらもう、いっそのこと今年はお休みで」
「いっそってなんなんですか、アンタ……!」
「イルカ先生は急におなかが痛くなって今年はお休み」

もしかしてそれを言うためにここへ?

「お願いします」
「え?」
「行かないって約束してください」
「は?」
「じゃないと俺、気になって、任務に行けません」
「任務、あるんですか!」
「そうですよ。もしかしたら今日死ぬかもしれない」
「そんなに危険なっ!?」
「ウソです。本当はDランクのつっまんないやつですけど」
「なにしてるんですか、早く行かないと、また遅刻じゃないですか!」
「だから」
「だからじゃない!」
「お願い」

その、捨てられた忍犬のような目をやめろっ!

「ええい、わかりました、行きません!」
「ほんとですか?」
「ほんとですっ、男に二言はありません!」
「ああ〜。それでこそイルカ先生だ。素敵です」

ちゅ!
カカシがマスクを下ろし、心の篭ったキスをした。

「もういいから、早く行って下さい!」

その一言で、カカシはあっという間に消えた。


ったく……
本当に、どう言えばいいんだ。
就任以来、一度も欠席したことないんだぞ……

即断即決、確かにその才は忍にとっては必須だ。カカシとこうなってから、イルカ自身、
その点に付いては大いに磨かれた自信がある。だがその帳尻を合わす方便の捻出となると、
まだまだ、およそ覚束なかった。
こういうことも、小さいうちから教えとかなきゃならないのかな。
いや、絶対にその方がいいと力強く思って、イルカは再び教室の方へ足を向けた。

『今夜は新カリキュラムの作成に当たります』

お? 我ながら上手い言い訳が出来たぞ。
そして本当に、何なら夜通しで、その作業に掛かるのだ。

そうすればカカシ先生だって、下手に手出しは出来まい。くく。含み笑いしながらも、
だがまたあの指で迫られたら、と思うと身震いするような甘美な思いに囚われてしまい、
歩みが唐突に止まった。

もう一つ、“様々な誘惑を避けながら”という項目を更に追加し、具体的にその内容を検討する
必要がある、と思いながら、イルカは重くなった腰を頑張って引き摺って、未来の忍たちの待つ場所
へ戻っていった。














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