黄金之巻






歌の翼




カラオケボックスである。

案の定……碌なところではない。
まず、この空気の悪さは何だ!? なんだかわからない臭いが充満して、全く息が詰まる。
こんなところで歌など。ありえない。果てしなく、この汚い酸素を吸っては吐いて、吸っては吐いて……
考えるだけで具合が悪くなりそうだ。

大体どこを見ても窓がないじゃないか。空調は? 効いているのか? 吹き出し口はどこなんだ!ああっ、
それで気が付いたがこの部屋、煙探知機もスプリンクラーもないじゃないか。
よく法律が通ったものだ。あ? もしかしたら通ってないのか? さては違法営業かっ!!

……ったく。

『♪みずーのー、うえをはしーりー……』

よくもまあ、平気で。


イルカは、気持ちよくマイクを握る男を胡散臭そうにちらっと見て、目の前の水を勢いよく
煽り、音を立てて飲み下した後で慌てて口を覆った。


それに、だ。いくら防音してあるか知らないが、回りから一切の物音が聞こえてこない
というのはどうなんだ。怪しすぎないか? 奴ら……本当に……

歌など歌っているのだろうか。

思いついたら俄かに尻が落ち着かなくなった。
ひょっ……ひょっとして。みみみ密室で、音が漏れないのをいい事に、ひ、密かに
人に言えない爛れたことをっ!? 場合によっては集団でっっ!!!!????
従業員もそれと知っていて注意もしないのか。あっ? そうじゃなくて逆に―――
もしかしたらどこかで、みんなでモニターか何かを見ているのかっ!?

イルカはぞくっと身を振るわせた。

なんて……いかがわしいんだ。

そして、恐る恐る辺りを見回した。
も……
もしかしたらこの部屋でも……
俺たちの前に……

目の前のソファが急に淫猥に見えてくる。

ああいやだ、こんなところ。俺は、本当は……!

こんなところ、来たくはなかった!!!


「ん? どうしました? イルカ先生。名子役みたいな顔しちゃって」

ようやく歌い終えたらしい。すっきりした顔の男をきっ、と見上げると、イルカは怒りを
押し殺して声を振り絞った。

「どうしたもこうしたも……アンタが俺を、無理やり拉致したからこうなってるんでしょう、今!」
「あー。そうか、ごめんねv」


* * * * * * *


「えっ、嫌い? ホントですか〜っ?」

つい最近異動してきた職場の後輩が素っ頓狂な声を出した。一緒にカラオケに、というから
正直に、わかりやすく断った結果がそれだった。イルカのカラオケ嫌いは、昔から馴染みの仲間には広く
知られている事実だったが、だがなにゆえ新参者、しかも恐れを知らない活きのいい若者と来た、先輩
たちの止めるのを余所に、果敢に誘いにきてくれたらしい。

「ああ。俺に構わず行ってくれ」

珍しく定時にほぼ全員の仕事が終わった。
ならば、とみんなでどこかに繰り出そうと決まったらしい。

「ええ〜。つまらないなあ。俺、イルカさんが一緒に行ってくれたら、すげえ嬉しいんです
けど〜」
「よせよ、マサト。無理強いはよくない」
「っていうか聞きますけどイルカさん、そもそも、行ったことはあるんですか?」
「カラオケ? ないよ」
「一度も?」
「ああ」

あんなもの。あるわけないに決まってる。みんながそれぞれに大音量で下手な歌を歌い合うんだろう? 
それも目一杯音を反響させて。自分に酔い痴れて。うう〜、いやだ。とても考えられない。だが、だ。仮に
百歩譲って、それをよしとしても、聞いたところによれば他の人間は、それをちっとも聞かずに、ただ別のことを
しているだけだというじゃないか。

呑んだり。喋ったり。

え? まーったく意味がわからない。それじゃあ歌なんかなくても同じだろうが。いや?
むしろ歌があるだけ煩くて仕方ないじゃないか!

常識的な人間ならまずそう思うはずだ、と素朴な疑問をカラオケ派に投げかけてみたこともある。だが逆に、
何故そんな風に思うのかわからない、という顔をされてから、こっちがおかしいのかと二度と同じことを聞く
気にはなれなかった。

「それ、ただの≪喰わず嫌い≫じゃないんですか?」

熱血新人は、引き下がる気配を見せない。はー。面倒なヤツだな。どう宥めよう。
イルカが向き直り、自分より5センチほど背の高い新人にきちんと正対したちょうどその時、窓の隙間に
顔が出現した。

「あ〜。それはそうですよねー、きっと」
「ああっ、カカシ先生!?」「カカシさん!」

たちまち職員室内が騒然とした。緩み切っていた空気に緊張が走る。滅多に顔を見せない上忍が、
よりにも寄ってこんな時に現れた。一体……

「何の御用でしょうっ!」(せっかく残業なしで帰れると思ったのに!)
「ん? ああちょっと、そこのイルカ先生に」(え? ああなんだイルカ? やった、ご指名か。ラッキー♪)

偶然なのか、なんなのか、実にいいタイミングではあった。ともかくこれでひとまず助かる。
イルカは胸を撫で下ろした。

他の用事を思い出されないうちに、と、まだ不満顔の新人を追い立てるようにして、全員が大急ぎで出て
行くのをふたりで丁寧に見送る。いつまでたっても何も言い出さないところを見ると、カカシもやはり特段の
“用”があったわけではなさそうだった。部屋に入ってこようともしないのをそのままに、最後にもう一度忘れ物
がないかを確認してから、イルカは出口に向かった。

「じゃ、行きましょうか」

そこでマスクの男がにこやかに言った。

「え? 行くって、どこへ」
「決まってるじゃないですか、カラオケですよ」
「は?」
「いやあ〜、一度も行ったことがないとはねえ。俺も迂闊でした。もっと早く、誘ってみればよかった」

いや、だから!

「何言ってるんですか、行きませんよ、カラオケなんか!」
「そう言わずに。俺と一緒なら恥ずかしくないでしょう?」
「そういう問題じゃないんです、キライなんです、あれ!」
「みんなとかち合わないところがいいですよねえ」
「いや、あのカカシ先生、ちょっと!?」

にこにこ笑う相手に合わせるうち、既にアカデミーの外だ。

「曲の数より雰囲気重視ですよね、なんていってもイルカ先生の“お初”なんだから」
「待って下さい! ちょっと人の話を聞いて……」
「じゃあ少し遠いけど、《木の葉ミックス》あたりかなあ」
「だからイヤですって! アンタ、言葉が通じないのか!」
「先生、お魚好き? あそこ割に料理がイケるんですよ〜♪」
「通訳!!」

行きますよ! という掛け声と共に、身体がふわりと浮いた。カカシに抱きかかえられ、
瞬時に森の中へ移動する。

「ははははは、イルカ先生、こっちこっち」

覚えのない場所だった。カラオケはともかく、夜の森で一人置き去りにされるのは趣味ではない。
しかたなく、木々の間を飛んでいく後姿に続いた。





で。強引に、見るからに品のない店に連れ込まれ今に至る。

「いやあ〜。久しぶりだったから、あんまり上手く歌えなかったなあ。聞いてくれました?」
「いえ、全く」
「えー、酷いなイルカ先生〜」

そう言いながらカカシは楽しそうだ。目の前には、部屋へ入るなり慣れた様子で注文した様々な料理や
飲み物が並んでいる。まあ、見た目は美味しそうではあるな。見た目は。だが油断は禁物だ。絶対に、
手は出さないぞ……

「大体あなたがこんな物の愛好家だったとは、意外ですよ」

ぐう〜、と鳴った腹を押さえてイルカは文句を言った。

「え? そう? 俺ね、歌が好きなんですよ、昔から! こう見えてレパートリーも広いんですから。最新の
Hポップから戦前のムード歌謡まで。あ、そうだイルカ先生、あとでデュエットしましょうね、デュエットっ!」
「Hポップって何ですか」
「え? H? Hinokuniだから……っていやだな、なんか変な想像したでしょ、また」
「してませんよ!」
「でもイルカ先生、ほんとに知らないの?」
「……悪かったですね! 知らなくて!」

なあにがHだ、軽薄な。よくもまあそんな、ちゃらちゃらしたもの……
大体アンタは、暗部出身のくせに―――

そう思ってイルカははっとした。

無論、その当時、カカシが歌などに現を抜かしていたとは到底思えない。今日死ぬか明日死ぬか、
ぎりぎりのところで命の遣り取りをしていながら、そんな余裕があるわけはなかった。
才があるばかりに、普通の子供でいることは許されなかった数年だったろう。だがあるいは任務を
終えてひとりきりの夜などに、つい気を許し、

小さな声で歌うことも、
あったのだろうか。


胸が小さく痛んだ。

当のカカシは「イルカ先生の知ってる曲、知ってる曲〜」などといいながら、一生懸命に分厚い本の
ページを繰っている。

「あ! これなんかどうでしょうか!」

ぱあっと輝いた顔に騙されつい本を受け取り、覗き込む。
【クラシックの名曲】という欄に、なんだか見覚えのある名前がずらりと並んでいた。

「こんなの……歌えるんですか?」
「ええ勿論!」

へえ。

懐かしい気持ちで文字を追った。
イルカは子供の頃、当時里にあった合唱団に入っていたことがある。だからこその、カラオケ嫌いなのかも
しれなかった。歌というものは! あのように背筋を伸ばし、腹筋を使い、朗々と歌い上げるものであって、
マイクを飲み込まんばかりにして濁声を張り上げるなど、以ての外なのだ。ああもう、ほんとに、とんでもない!

だけどこの曲は……知ってる。こっちも歌ったな……
当時熱心に指導してくれた、美しくも厳しいミサキ先生の顔が浮かんだ。

緊張で硬く強張っていた心が、少し、落ち着きを取り戻した。
その様子をじっと見守っていたカカシが横から首を伸ばす。

「あ。これ! これは俺でも知ってます。じゃあまず一曲目はこれで」
「えっ。俺は歌いませんよ!」
「いいんですよ。とにかく聞いてみませんか?」

戸惑っているうちに部屋の中が一瞬静まり、続いて穏やかなアレンジのメロディが流れ始めた。画面には
遠い、外国の山らしき映像が流れている。それをどこだろうと眺めているうち、
歌詞が出てきた。


<歌の翼に 愛しい君を乗せて   大河のほとりへ 君を運ぼう>


メロディは良く知っていたが、じっくり歌詞を追うのは初めてだった。

『そこはどんな世界なのか、よく想像してご覧なさい。眼を閉じて。何が聞こえる? 何が見える?』

ミサキ先生の声が蘇る。


<静寂なる場所    月に白く 砂は輝き
蓮の花 咲き乱れ   スズランは 星と共に謳う>


そうか。この曲はこんなことを歌っていたのか……


<遠く聞こえる 聖なる流れ   僕らは椰子の木の元に降り立ち

 愛と平穏を深く味わい   幸せな夢を見よう>


唐突に、川のほとりで月明かりに照らされるカカシの姿が思い浮かんだ。一人、石の上に立っている。
美しい花と、水と、夜の風に囲まれて。その顔が、イルカを認めて振り返る。

思いがけず、感情が昂ぶった。

自分が、この世で最も美しく平和な場所へ、
大切な人を、連れて行く――――







なんということだ。
俺は、この人を愛している。
明日がこの命の終わりでも、俺がこの人を守らなければ。







カカシ先生。










熱い気持ちがせり上がった。
思わず目の前のいわしのつくねをぱくぱくっと頬張り、色の濃い酒を煽る。途端に涙が溢れ出し、
イルカは歯を食い縛った。

「……っ!」
「イルカ先生? どうしました? 気分でも?」
「っ……っ……」

カカシの顔色がさっと変わった。
「さては今食べた物か! 吐くんだイルカ、毒かもしれない! イルカっ!!」
「……っ、そう、じゃありません。カカシ先生」

激昂するカカシの腕を押さえて落ち着かせた。

「そうじゃないんです」
「イルカ先生……」
「ごめんなさい。今の、もう一回、掛けてもらってもいいですか?」
「え?」

今度は小さな声で、曲と一緒に歌った。
聞いたカカシは心底驚いて「なんて温かい声だ。初めて聞きました。喋ってる時と、
全然違う」と呟いた。

「もっと歌ってくれませんか?」
「……はい」



酒が進み、最初はおずおずとマイクの角度などを気にしていたイルカが、いつの間にか
カカシと交互に歌うまでになっていた。

「いや楽しいですね! 今度はナルトたちも連れて来ましょう!」
「はははは、そうですね、はは」



カカシとしては。
真面目一辺倒な恋人が、少しでも楽しんでくれればと思ったのだ。日頃、あれは駄目、
これも駄目、と、自分でも気付かぬほど多くの枷を自らに嵌めている。それが悪いという
わけではないが、端で見ていて時に痛々しい程で、辛かった。
まあ。少しは解放に繋がったかな。
思ってカカシはにっこりし、2時間の延長をフロントに告げた。
















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