人の気配……。
少なくとも、ここに運ばれてくる食事を作った人間がこの城の中のどこかにいるはずだ。
だが、食料の匂いを探るのは難しそうだった。代わりに全身を耳にして探る。

お……。見つけた。

男は、力なく横たわったサンジを抱き起こし、荷物のように抱え上げると、察知した
僅かな音を頼りに、時々立ち止まり確かめながら城の中を奥深くへと進んだ。
幾つもの扉を潜り抜け、廊下を進んでいくと、気配は次第に強くなり、ついに目の先に、
その奥ではっきりと人の声が聞こえる場所が現れた。

よっこいしょ。

もう一度サンジを抱え直し、ドアのないそこへ入っていく。
中には数人の人間がいたが、男の姿を見た途端、当然のように全員が一斉に押し黙った。

「……!」

カシャンカシャン……!

おう、何だ、ここの人間の方がよっぽど《出来る》じゃねえか。男は俄かに心強く思いながら、
サンジの尻の脇から顔を出し、声を掛けた。

「突然済まねえが」

あっという間に全方向隙なく囲まれていた。
全員がそれぞれ、自分に合った武器を構えている。

「や、別に怪しいモンじゃねえ」
「嘘付け馬鹿野郎、てめえ以上に怪しい奴がいるとしたら魔女か妖怪か……あと何だ、パティ!」
「知らねえよ、アホ! おっ……と動くんじゃねえ。何が狙いだ?」
「そのことだが」
 
そう言って律儀にパティと呼ばれたコックの方を向いた男の背中を見て、一番歳嵩の人間が
口を開いた。

「サンジじゃねえか」
「サンジ……? って、料理長!」

何? サンジってあのサンジ? 嘘だろ?
何しにまたこんなとこに……つか何? どうして? なんで意識がねえの? 

俄かに輪が崩れ、全員の興味は男ではなくその肩に担がれた人間の方に移った。
どうやらここの連中は、誰一人、サンジを《王子様》として扱うつもりはないらしい。
どころか、全員が知り合いのようだった。

なあこれ……死んでんじゃねえ? え? 嘘だろ? じゃあ何、コイツがっ!?

ざざざざ! 
再び出来上がった包囲網は、明らかにさっきより縮んでいる。男は身の危険を感じ、
慌てて叫んだ。

「待て、こいつは死んじゃいねえ!」
「そのようだな」
 
料理長と呼ばれた男が静かに言って、その一声でようやく僅かに空気が緩んだ。

「で? てめえは何モンだ、緑」

その口調が、昨日聞いたサンジのそれにそっくりだ。気付いた男は口の中でひっそり笑い、
それから自分の身の上から始めて、昨日と今日王子の居間で見聞きしたことを掻い摘んで伝えた。
その間、サンジを担いだ体をびくとも動かさなかった肚力を信用したのか、話を聞き終わると
料理長は言った。

「それでおめえは、そいつをどうするつもりだ」
「取り敢えず、頭領としてふさわしい程度に立て直す」
「は?」
「目が覚めたらこいつは当然また行こうとするだろうが、一人っきりじゃ行くだけ無駄だ。
かと言って……今のままじゃ、誰も付いてかねえだろ」
「てめえは、一体……」
 
その口から出る言葉を、言うなりに信用していいのかどうか。訝る視線が男の様子を素早く、
舐めるように走査した。
男は少しの間じっとしていたが、やがて駄目押しのように付け加えた。

「まあ、俺は一人でも行くけどな」
「わからねえ。何故だ」
 
三つ編みに結った髭を撫でる大男の目を真っ直ぐに見て、男がさっぱりと答えた。

「コイツに惚れちまった。ハハハハ」
 
一堂に緊張が走った。だが男の屈託ない笑顔は、見ているうちに〈そういうのもありかな〉、
と思えてくるほど妙に説得力があった。

「なるほど。で? まず何をする」
「どこか奥の方の、小さな部屋を一つ借りたい」
 
えーっ料理長、納得っすか、それでいいんですかい! と騒ぎ立てる外野を余所に、
言われた料理長が厨房のすぐ横にある用具小屋を示すと、男は満足そうに頷き、
続いて毛布数枚とバケツに三杯の水を要求し、丸二日間は誰もそこに近付かないよう
約束させて、漸くサンジの体を床に下ろした。

「七、八……ほう、十人もいるじゃねえか」
「あ?」
「《王子様》は、この城にはもう誰もいねえ、つってたが」
 
男と料理長の行く先についてそろりそろりと集団移動していたコックたちがお互いの顔を見回した。

「こいつらは、ここを出てったら他に行くとこがねえ」
 
その一言に、赤い顔をした一番若そうなのが、勢いよく頭を何度も振った。
男を信じたのかそれとも信じた振りをしているだけなのか、黙って言うなりになっていた料理長が、
去り際に、ふと小山のような帽子を止めて聞いた。

「一つ聞いていいか」
「何だ」
「てめえの名は」
「……ロロノア・ゾロ」
「ハ、覚えたぜ、緑坊主」
 
ゾロ、と名乗った男はまず用具小屋の中から全てのものを外に出し、がらんどうになった場所に
サンジを座らせた。
マントを見てふと、口ずさむ。
「眠る黒衣の王……」
それを脱がし、皮の上着や余計な装束も取り去って、シャツ一枚の姿にすると自分は外に出て、
鍵を掛けた扉の前に陣取った。


しばらくすると、中から物凄い叫び声が聞こえてきて、それは少し離れた厨房にまで届いた。
約束を守って近付きはしないでいたものの、手持ち無沙汰な様子で聞き耳を立てていた面々は
一様に肝を冷やした。

「開けろぉおおおっ!」
 
その余りの声に、耐えかねた一人がこっそり覗きに行くと、《詩人》は知らぬ振りでドアに
寄りかかったままで、少しも動く様子がない。中のサンジは叫び終わると今度は扉に突進して、
力尽くで開けようとしたが敵わなかった。激しい衝撃にも何食わぬ顔で、男は座りこんだままだ。
 
やがて今度は意味のない、獣の咆哮のような唸りが響き、コックたちはみな縮み上がった。
静かになると、男は立ち上がり扉を開いた。中に入る……声は聞こえない……と、勢いよく
水が放たれたような音がした。

何が……起きているのか。
偵察隊はこっそりと後ずさって持ち場に戻った。

「おい、どうだったよ」
「いや、よくわからねえ。だが何だか……これ以上は何も知らねえ方が、全員のためのような
気がする」
「へっ」
 
ゼフが呆れた顔で鼻を鳴らした。

「ざまぁみやがれ、クソガキが」


サンジが中でどうなっているかも気掛かりだったが、その前でぴくりとも動かず粘る男の様子も、
次第にコックたちを不安にさせた。声を掛けても曖昧にしか答えず、食事を用意しようと利かせた
気は無駄になった。時折思い出したようにサンジが喚き、すると男が中に入る。しばらくすると出てきて、
新しくバケツに水を足し、それが終わるとまた同じように座り込む。日が落ち、空気が冷えてきても
男はその場から動かなかった。何度も同じことを繰り返し、朝を迎え、また夜になり、ようやく三日目の
昼過ぎに、同じようにまたサンジを抱きかかえて再び厨房に戻ってきた。

「もう大丈夫だ。どこか……こいつを寝かせられるところはないか」
 
ゼフが黙って立ち上がった。

「そこだ」

居室まで先導した料理長が皺だらけの指で差したベッドは、シーツも枕カバーもきちんと洗濯され、
清潔に保たれてはいたが、サンジが横になると少し窮屈そうに見えた。
詩人は流石にやや疲れた様子ではあったが、ゼフが、頼まれた熱い湯とタオルを手にベッド脇に戻ると、
すぐにそれを受け取り手際よくサンジの体を拭き始めた。

「なんだ……オッサン、ずっと見てる気か」
 
掠れた声が小さく響く。翳の落ちた瞳が鋭く光り、睨まれた料理長はふと、心臓のすぐ傍に手を
置かれたように冷やりとした。呼吸を戻すのに、ほんの少し、時間が必要だった。

「ハ! 心配か? この青色1号黄色4号」
「? なんだそりゃ」
 
立ち込めた殺気がそれで一気に霧散した。

「くだらねえ。こちとらコイツの裸なんぞ皮も剥けてねえ頃から見慣れてんだよ。遠慮しねえで
どんどんやれ」

途端、血走った目が物言いたげに見開かれたが、詩人はそのまま黙り、作業を続けた。
タオルを替え、汗で張り付いた髪を掬ってやる。
顔を出した額はどこまでも白く、眉の近くには、寝ていても尚深い皺が刻み込まれていたが、
奥の方には穏やかな、優しい気が隠されていた。
戻った髪がそっとその皮膚の上に落ち、ゾロが、傍らの料理長に目をやらぬまま呟いた。

「なあ見ろ、アバラが浮いてる」
「ああ」
「アンタ、こいつの養育係かなんかじゃねえのか。何故こいつはここまで痩せちまってる」
「さあなあ」
「仮にも一国の王子だろうが」
「ハッ、どうだかな」
 
吐き捨てたその目に一瞬、憐憫に似た色が浮かぶのをゾロは見て取ったが、敢えてそれ以上は
問わなかった。

「まあいい。目が覚めたら、少しずつ何か食べさせてやってくれねえか。体がびっくりしねえような
何かを、少しずつ」
「……ああ。わかった」
 
突然現れ力任せにサンジを揺さぶり目を覚まさせる……自分には出来なかったその手法に
綺麗に脱帽する。
ゼフは半ば呆れながら、軽くため息をついた。

作業を終えて、立ち去ろうとするところに声を掛けた。

「てめえは。どこへ行く」
「ざっと調べてくる。あっ、と……その前に掃除」

ゾロが歩を進めると、入り口に鈴生りになっていたコックたちの顔が一斉に引いた。
その真ん中を縫って用具小屋に戻り、一つ残ったバケツの水を今度は床に撒いて
端から丁寧にブラシでごしごし擦って、謎の吟遊詩人は出て行った。
出掛けに、念のためもう一度、と恐る恐るコックが勧めた食事を、嬉しそうに食べて行くのも
忘れなかった。
















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